2015年12月24日木曜日

アヒルたちのメリークリスマス

動物の世界では不思議な事が起こる。

三十三羽のアヒルがいる湖の両岸で、一方では5秒に一回、もう一方では10秒に一回餌を投げ入れていると、一分もするとアヒルが分散を始め、結局両岸のアヒルの数は2:3になるのだという。
みなが餌を得る機会を均等にする「ナッシュ均衡」を集団として実現するというのだ。
計算をしているはずもないが、かんたんには計算出来ないどんな秒数に変えても、この三十三羽のアヒルたちは理論上のナッシュ均衡を苦もなく実現するのだそうだ。

これはトム・ジーグフリードの「もっとも美しい数学、ゲーム理論」(文春文庫)
で紹介されているエピソード(p133)だ。

もっとも美しい数学 ゲーム理論 (文春文庫)
トム ジーグフリード
文藝春秋 (2010-09-03)
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よく考えてみれば、湖のアヒルたちの振る舞いのほうが自然なことなのかもしれない。 
地球が出来てから今まで、どれほど激しい環境変化を経てきたかを考えれば、全体が生き残る戦略のほうが、その時点で優れていると考えられる少数が生き残る戦略よりも正しいのは自明なことと思う。
しかし、人間はそのようには生きられない。
この社会はそのようにはできていない。
アヒルがやっていることと、政府がいろんな人にいろんな方法で給付金を配ったり、誰かと誰かの税金に差をつけたりすることとは本質的に異なっている。

人間が高度だと思っている科学は、高度になっていくほどこのような自然さから遠ざかり、ついにはこの究極の自然状態を「計算」する方法を発見したジョン・ナッシュの業績にノーベル賞が与えられるほど遠い場所に追いやってしまった、ということではないのだろうか。
でもきっと、それでも僕らの本能のどこかに、みんなで生き残るほうが正しいという遺伝情報が残っていて、現実とのギャップに生きにくさを感じている。

もしかしたらこういう気持ちの拠り所としてこの世界に宗教というものが生まれたのではないか、などと特定の信仰を持たない僕などは考えたりするが、そうして生まれた宗教でさえ、新しい爭いの火種にしてしまうのが、これまた人間というものでもある。

だとすると、子どもが生まれると神道の作法に則って息災を祈り、教会で結婚式を挙げ、仏式の葬式を出し、ハロウィンには仮装して大騒ぎする僕らの国のありようも、それほど悪くないもののように思えてくる。

生きるための計算において、アヒルさんに大きく劣る僕らはせめて今夜、ケーキを均等に切り分けてメリークリスマスと言い合おう。
 
メリークリスマス。

2015年12月8日火曜日

あると信じて探す~ジョン・レノンに捧ぐ

今日12月8日はジョン・レノンの命日ですね。

今年、集団的自衛権をめぐる議論の中で、イマジン的ドリーマーな世界を口先だけで語っても世界は平和にならない、という論調の発言をよくネットで見かけました。
それもひとつの考え方でしょう。

しかし僕は、イマジンという歌が単に理想主義的で現実を無視したピース・ソングだとは思わない。
それはこの歌が、宗教と人間の弱さに言及しているからです。

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Imagine there's no Heaven
It's easy if you try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today
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想像してみよう 天国なんて無いと
やってみれば簡単なことさ
地面の下に地獄は無いし
僕らの上には ただ空があるだけなんだ
さあ想像してみよう 人々は
ただ今を生きているだけだと
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ジョンはヨーコの影響で禅宗を学び、世界にはキリスト教と異なる世界観が存在することを知るのですが、なにより驚いたのが、東洋の世界観には「最後の審判」が無いということでした。

最後の審判への恐怖が、隣人よりも神を優先させている。
そしてその心理が、多くの罪を人間に犯させているのではないか、というのがジョンの問題意識です。

しかしそれが信仰そのものを否定するものではない、という気持ちが「想像してみよう」という言葉に込められているのだと思います。


広告の仕事をしていた頃、先輩から教わったことがあります。
広告の企画を考える時、それがお客様の「課題」を解決する手段となることが重要なのですが、しかし肝心の「課題」が何なのか、ということは、実は当のお客様にもわかっていないことが多いのだ、と言うのです。

なぜか。
それは課題というものが、あるべき「理想」に向かう途に存在する「障害」のことをいい、その「理想」を正しく設定することが何より難しいからです。
だからまず、課題が何かなどと考え始める前に、お客様にとっての「理想」を一緒に話し合えるパートナーになれと諭されました。
その「理想」がなければ、正しく前に進むことはできない。
別の場所にはしごをかけたら、登れば登るほど理想から遠ざかってしまう。

まったくその通りだと思いました。


世界はまだ、世界にとっての「理想」を話し合えるパートナーになっていないのでしょう。
もしかしたら人間にはそのような関係を築く能力がそもそも欠如しているのかもしれない。
国の中では「多数決」で。
国と国の間では「武力紛争」で。
同じ国の中でさえ「武力紛争」でなければ、問題を解決できないことだってある。

でも、冒頭のイマジン的ドリーマーの世界を詰る人たちも、それが「理想的」だとは感じている。
だからそこにやはり希望はあるんだと思います。

前述の先輩に、「でもそういう理想を持ち合わせていないお客様もいらっしゃるんじゃないでしょうか」と、問うた時、にっこり笑って「あると信じて探すんだよ」と言われたあの笑顔が忘れられません。
確かにそれしかできることはないですもんね。

2015年11月25日水曜日

だれとも向き合わないカウンターの風景

この店をつくる時、関わったいろんな業者さんが口々に、「回転率」を考慮した客席レイアウトについてアドバイスをしてくれた。
僕は売り上げを上げるのは「回転率」ではなく「味」だと思っていたし、効率重視の狭苦しく区切られた店内で食べるものは、同じものでもおいしく感じられないのではないかと思っていたので耳をかさなかった。

特に彼らが目の敵にしたのはコーヒーを淹れるスペースに対置された広々としたカウンターだった。
「こんないい場所にカウンターを置いてはいけない」
「カウンターは窓際に外を向いて並べるのが一番効率がいいんです」


しかし銀座のbarに入り浸っていた僕にとってカウンターというのは神聖なもので、話しかけられるようになるまで、何回か通い、目を合わせて微笑んでくれるようになったらおずおずと話題を選んでマスターと話をし、明らかに自分には過ぎた場所だったと気付かされたり、意気投合して長い間通うことになる店を見つけたりした。
それにコーヒーを淹れる方法が一つのプレゼンテーションと考えていたのだから、もちろんそのアドバイスを採用するわけにはいかなかった。

確かに高回転率を目指す業種では確かに窓向きのカウンターテーブルが機能しているのはよく街で見かける。
そうして今や、人ではなく外と向き合うカウンターテーブルは、主に「お一人様」的カフェ利用者にとって一般的なものとなった。
トラディショナルな喫茶店が少なくなっていく中、カウンターを神聖視するような古い考え方は失われていくのだろう。
それも効率主義が失わせた風景のひとつだ。

2015年10月16日金曜日

エイベックスがJASRACから離脱するんだそうで

エイベックスがJASRACから離脱するんだそうだ。

JASRACさんには、開店以来、毎年7,000円弱の著作物使用料を払っている。
BGMとして使用した各楽曲の分をお支払いするのではなく、事業所面積に応じた包括的な契約になっている。
その方法や、そもそもの料金が適切かどうか、というのはわからない。
しかし、それぞれの楽曲に対して使用料を払おうとすれば、その日流したBGMの楽曲リストを作成して提出する、ということになるだろう。
下手をすれば、本業の分の税務申告以上に煩雑な手続きになる。
だから、事務手続き上は極めて現実的な集金方法だと思う。
違和感を感じるのは、それが税金でもないのに、店舗を運営してBGMをかけると自動的に支払い義務が生じるという強制性のほうだ。
よく似たものにNHKの受信料がある。

よく知られているように、NHKの受信料には「放送法」という根拠法があり、JASRACの著作物使用料には「著作権法」という根拠法がある。
それぞれの根拠法を行使する団体がひとつしか無い時、それは多少の心理的抵抗を伴いながらもある程度成立する。
しかしこれが二つになるとどうなってしまうのだろう。
エイベックスはまた別の方法で、我々から著作物使用料を徴収するということになるのだろうか。
この二重課税的な徴収にはさすがに簡単には従いたくない気分になる。


確かにファンキー末吉さんなんかの話を聞けは、JASRACのアーティストさん側への再分配の方法については問題がありそうだ。
主にそちら方面の事情での離脱だと思われるし、司法の判断も注視していきたいが、零細事業を営む身としては使用料徴収の方法論が気になる。
政治家が机の上で計算した2%で生きも死にもする身だ。
これ以上振り回さないで欲しい。

2015年9月11日金曜日

軽減税率に殺される

軽減税率のニュースを新聞で読むたびに頭を抱えている。
食品を商材として扱う極小店舗を営む者として、レジにマイナンバーカードを読み取る装置をつけて・・と簡単に書かれているところにまずクラクラしてしまう。

ネットワーク機能をもたせたレジを導入するのに、いったい、いくらぐらいかかるものなのだろう。
開業のとき調べたが、POSデータを扱えるレジが、最も安価なものでもリースで月2万円くらいだったと記憶している。
 
お客様のために美味しい菓子やコーヒーを作るためなら、車のない生活も、携帯電話のない生活もちっとも苦ではないが、政府の政策を実現するためにレジなんかに出費させられるのは御免こうむりたい。
商品の価値、つまり味や安全性に関係ない出費を上乗せされた対価を、これ以上要求されるのは、お客様も嫌だろう。
 
せっかく軽減した消費税分など、この仕組のための設備投資でどこかに飛んでいってしまう。
消費税増税で財布の紐が堅くなっている市況で売り上げも減っていくだろう。
そんな中で我々の生活費をさらに2万円削れと言うのなら、残念ながら折角手にした夢の実現だったが、店舗の継続をあきらめざるを得ないだろう。

消費税が8%に上がった時、新潟の「河治屋」という歴史のあるスーパーが、レジ買い替えの資金を調達出来ずに倒産した。
政策は、これを教訓とせず、さらに前へ進もうとしている。

>財務省は、今回の事業の発足に先立って『買い物記録を集約するデータセンターの新設などインフラ(社会基盤)整備に約3000億円を投じる』ことを想定している

とある。
 
一人あたま4000円の税金還付のために3000億円のインフラ整備を差配するお役人様には、月2万円のやりくりに苦しむ商店主の気持ちはわからないだろうし、大きな企業に対しての効果で、全体としての効果が担保されれば、事業としては成功と判断されるのだろう。
蔑ろにされるものの痛みに鈍感な社会に僕らは生きている。
負けたくはないが、どうやって勝てばいいのかも今はわからない。
ただ頭を抱えるだけだ。

2015年9月7日月曜日

64年のシンボルマークに込められた本当の意味

前職で、幹英生(みきえいせい)さんという画家で、グラフィックデザインも手がけられた方と3年ほどお仕事をさせてもらった。
請け負ったのは、毎年数百ページに及ぶパンフレットを作るという仕事だった。
大詰めになるとクライアント先や印刷所(印刷に回す直前まで修正を重ねるため)にまで泊まりこんだりした。
ハードな仕事だった。

仕事が終わると幹先生が新橋の裏通りにある隠れ家的なお店に連れて行ってくれて、オリンピック周辺のデザイン事情の激動についてよく話してくださった。

僕がいたのはリクルートという会社で、64年オリンピックのシンボルマーク(と当時は言っていました)を作った亀倉雄策先生は当時まだご存命で、リクルートの例のかもめのマークをデザインしてくださったご縁で、リクルート事件で揺れる会社を助けるためにもと仰って、役員をお引き受けくださっていた。


亀倉先生や早川良雄さん(こちらも昭和を代表するグラフィックデザイナーです)と親しかった幹先生はあのシンボルマークの裏話をよく知っておられて、それは本当に面白く、現代の日本に大きな影響を与えたイベントだったのだなあと強く印象に残っている。




まずあれは日の丸じゃない、というところに驚く。赤い太陽なんだと言うんですね。
つまり国旗を置いたんじゃなくて、国旗を定めた時のスピリットを置いているんだと。
すげえ話だと思いました。マジで。

で、そう言い張ってるだけじゃなくて、デザインでそれを主張しているんだと。
それが赤い太陽と金色の五輪の間の限界まで絞った「隙間」なんだと。
あそこにあれ以上余白があると国旗になってしまう。
これがデザインというものかと心底感動しました。

当時のデザイン業界は、今ほどは大きくなく、今の感覚で見れば身内で審査しているみたいな感覚ですが、こういうデザインマインドが生み出す感動みたいなものを共有してるんですね。
そこには何かに似ているとかいう発想は最初からない。

4年ほど前に出た「東京オリンピック物語」にその辺の話も出てるんじゃないかと思って期待して出版を待って買ったのですが、ばっちりそのまま書かれていて嬉しかった。業界ではよく知られた話だったようですね。

他にも、競技の勝者をリアルタイムで報道する世界ではじめてのシステムを開発した日本IBMのエンジニアや、帝国ホテルの村上シェフが采配を振った一万人におよぶ選手村への給食、谷川俊太郎が脚本を書き市川崑が撮った芸術性の高い記録映画が、組織の論理に押しつぶされてスポイルされていく経緯など、64年 のオリンピックを支えてたのは、損得勘定の「政治」や無責任な野次馬と闘った生々しい「個人」のドラマだったことが描かれている。

表舞台も裏方も、今も昔も、結局人の情熱だけがオリンピックの精神に相応しい感動を生み出すのだと思う。
誰かの与えてくれた感動で2020年も振り返ることができるといいなと思います。


TOKYOオリンピック物語、もう文庫になってました。


TOKYOオリンピック物語 (小学館文庫)
野地 秩嘉
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2015年9月5日土曜日

お砂糖のこと

カフェジリオでは、コーヒーと一緒にお使いいただくお砂糖に「ペルーシュ」を使っています。
不揃いな形の角砂糖で、多くのカフェで使われています。


ホワイトとブラウンがあるのですが、ブラウンの減りがはやいですね。
子供の頃、家にも「コーヒー・シュガー」という名前の琥珀色の結晶状の砂糖がありましたが、お客様にもそのような、「コーヒーには茶色い砂糖」というイメージがあるのかもしれません。

うちでは写真のように白と茶をひとつの皿にいれてお出しするのですが、先日お客様から「やっぱり砂糖は漂白してないほうが味がいいのかい?」と訊かれました。
茶色いお砂糖が自然な姿で、白い砂糖は漂白したものという認識が、もしかしたら一般的なのかもしれません。
そういえば、どこかのカフェのブログでもブラウンの方が漂白していないぶんミネラル分が豊富かも、と書いてありました。

砂糖の主成分はショ糖(C12H22O11)という、無色透明で甘味のある結晶なのですが、それが結晶粒子の光の乱反射により白く見えているのです。
三温糖などの褐色の砂糖は、サトウキビなどの蜜の部分からも糖分を絞り出すために加熱、遠心分離を繰り返すうちに糖質がカラメル化してできるものだそうですが、ペルーシュのブラウンは、雰囲気をコーヒーに合わせるためカラメル色素で着色しているものです。
ペルーシュの場合は、白を漂白しているのではなくて、ブラウンを着色していた、ということですね。
(ペルーシュにはカソナードという三温糖タイプのブラウンシュガーもあります)
 白い砂糖は漂白されたものではありませんので安心してお使いください。


このペルーシュ、溶けにくいと感じられるお客様が多いようです。
プレス成形を行わず、不揃いな形を造る独自の製法が原因なのではないかと思うのですが、砂糖を入れて、20~30秒ほど放置しておくとコーヒー液が染み入って溶けやすくなるようです。
最初からくるぐるかき混ぜると、すごいスピードでコーヒーの温度が下がっていって、かえって溶けにくくなるようです。
ペルーシュを使っているお店では、砂糖を入れたらすぐにかき混ぜず、少し待つ。
お試しください。