2014年1月22日水曜日

僕が太地町で見たものは

ケネディ米駐日大使が、太地町でのイルカ漁について、その非人道性を深く懸念しアメリカ政府を代表して反対すると述べているそうだ。

イルカ漁に「非人道性」を感じる、という文脈が字義的にどうもうまく頭に入ってこない。
それは僕が見た、太地町でイルカに関わる仕事をする人たちから感じられる当代一級ともいえそうなヒューマニティーとの乖離が大きすぎるからだと思う。


以前僕は、専門学校の募集広告を作っていた。
専門学校にはいろいろな専門分野があるが、なかでも「イルカの調教師」=ドルフィントレーナーを養成する学科は、子供たちに非常に人気の高い学科のひとつだ。

ドルフィントレーナーは、一般に水族館がその就職先となるが、これは全国で200名程度しか現職者がいない極め付きの狭き門だ。
ひとつの就職先として、その水族館にイルカを販売する会社があると聞いて取材に行ったことがある。

太地町の静かな湾に沿ってその会社はあった。
紹介をお願いした専門学校の卒業生は、仕事のあらましを教えてくれた。

イルカはクジラ漁の網にかかるのだという。
もともとイルカとクジラは同じ動物で、サイズの違いで分類されているに過ぎない。
イルカは頭のいい生物なので、人間に捕えられたことを認識し、恐怖している。
だからこれをそのまま水族館に連れて行っても芸をするはずがない。
その販売会社の大きな役割は、水族館にイルカを渡す前に、人間への不信感を解くことにあるのだという。

仕事の現場を見せてもらった。
たくさんの若者がウェットスーツを来て、湾に設えらえた生け簀の中でイルカたちと寄り添うように泳いでいた。
生け簀は湾に沿ってたくさんあり、それぞれ別の会社が運営しているのだという。
隣の会社でも、同じ学校の卒業生が二人働いてますよ、と教えてくれた。

生け簀でトレーナーたちは、イルカに笑顔で話しかけたり、餌をあげたりしていた。
中には激しい拒絶の姿勢をとるイルカもいた。
言葉の通じないものに、自身の愛情をどうやって伝えるか、若い彼らは一生懸命だった。
うまくいかなくて休憩所で泣いている女の子もいたが、先輩たちがアドバイスをしていた。結局愛してあげる以外にないのだ、と。
イルカは、トレーナーを信頼すると決まって、餌をもらうときに水面から直立する立ち泳ぎをするのだという。
いわば、この立ち泳ぎが卒業証書なのだ。

幸運にも僕はこの取材中に、あるイルカが初めて立ち泳ぎをする瞬間に立ち会うことができた。
生け簀のなかの全員が大喜びで、拍手をしたり歓声をあげたりしていた。
見ている僕も不思議な感動に包まれて涙が出てくるのを抑えられなかった。

これ以上に「人道的」な職場を僕は未だかつて見たことがない。
これからもそうだろう。


イルカ漁を批判する声を聞くたびに、本当に批判することはたやすく、理解することは難しいと痛感する。
動物を殺して食べることは「殺生」で、植物ならば良いとするベジタリアンという考え方に僕は強い違和感を感じる者だが、そのことを批判はしない。
一部のベジタリアンの流儀では動物の中に魚が含まれていないと知ったときは仰天したが、そういうものなのだろう。
有精卵を食べることは「殺生」で無精卵ならばかまわないという論拠もおそらく説明を受けても理解できないだろうが、論破しようとは思わない。
人間の行いなど、そのコミュニティの中で容認されていればよいのである。

ただ、それを「道義」と呼ぼうとするなら話は変わってくる。
人類の歴史を汚してきた数々の殺戮の多くが、他者の振る舞いを自らの道義に照らして断罪しようとすることから始まったことを、僕らはそろそろ真剣に学んだほうがいい。


たびたび持ち上げるイルカ漁批判に、太地町のドルフィントレーナーたちから抗議の声は上がらない。
当たり前だ。
彼らは自分の仕事にひとかけらの疑問も持ってはいない。
ひたすらにイルカたちとの信頼を回復しようと笑顔で生け簀を泳いでいる彼らには、ネット越しに「人道性」を説く人たちに自分たちの仕事を理解してもらう必要なんてどこにもないのだ。
僕もそんなふうに、自分の仕事に誇りを持って生きていきたいと常々思ってはいるが、今だってつまらないことで時々心が揺れてしまう。
ますます精進していきたい。

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