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2017年4月2日日曜日

カフェジリオ10周年、10年分の経験でやっと新しいブレンドをひとつ作りました。

先月3月21日を持ちまして、カフェジリオも10周年となりました。

10年もやっていれば、それなりに学び、習得した技術もあり、この機に集大成っぽい何か新しいことはできないだろうか、と思い、となればそれは新しいブレンドを作ることしかないだろうと思い当たりました。

珈琲通を自認する人たちはストレートコーヒーを選びがちですが、結局そこで問題になるのは農園と焙煎度だけ。
料理に譬えれば、素材の味と温度と切り方で決まる刺し身を楽しむ態度です。
それはもちろん粋でカッコいい価値観ですが、ソースや様々なスパイス、加熱法などのマリアージュで新しい味の世界を作っていく、広大な料理の世界に背を向けることでもあります。
長いコーヒーの歴史の中で、広がっていった産地の数だけ香味があり、焙煎度を掛けあわせた無限の可能性の中から、新しいコーヒーの味を作っていくブレンドは、(コーヒーだけに)煎じ詰めて言えば、コーヒーを生業にするものの目的そのものであるとも言えます。

というわけですから、ブレンドというのものは、「さて、何か新しいブレンドでも作るか」と言って作るようなものではないのです。
まず何か新しく実現したい味があって、そこに向けて豆を選び焙煎度を調整して作るのでなければ、ただ混ぜてあって、他のコーヒーと味が違うものができるだけ。
そういうものを「自分の作品」としてお店に出して対価をいただくことには強い抵抗があります。

そしてその実現したい味のヒントは、やはりここ10年で出会ったコーヒー豆にあるはずです。

真っ先に頭に浮かんだのは、マラウイのゲイシャ種。
深く焼いても下品にならずに、コクだけが出てくる素性の良さに感心して使っていましたが、最もバランスが良くなるはずのフルシティ(中深煎り)のちょっと手前では強い酸味が残ってしまうため、他のアフリカ豆のような奥行きのある香味が作りにくい豆でした。

焙煎度の吟味に迷っているうちにパナマのエスメラルダ農園が、ゲイシャ種でカップ・オブ・エクセレンスを獲ってしまい、世界中の注目を浴びた「ゲイシャ」という品種。
それまで知る人ぞ知る存在だったマラウイのものまで市場から払底して、一時入手困難になってしまいましたが、世の常でブームはいつか去り、ようやく安定的に入手できるようになっていました。
この機にゲイシャをブレンドで補正して奥行きのある味を作りたい。
これが今回のブレンド作りのメインコンセプトとなりました。

では、その奥行作りのパートナーをどうするか、についてはすぐに思い浮かんだ豆がグァテマラで、苦味と酸味が時間差で出てくるこの豆の独特の味が、このきっとこの補正にはぴったりだろうと。
そしてここ10年でもうひとつ感心した「エルサルバドル」という豆が、グァテマラの隣国であることもすぐに思い付いたところで、これはジリオブレンドというハウスブレンドの基本コンセプトが、エチオピアとタンザニアの質の異なる酸味を掛けあわせて奥行きを得るという考え方によく似ています。

こうして、マラウイ、グァテマラ、エルサルバドルの三種等量配合を試してみたところ、なにしろかなりコクが深いゲイシャの後味にだけ酸味の奥行きをつけるというアクロバットなわけで、やはり焙煎度の調整が難しい。
一週間ほどお客様にも感想をお聞きしながら育てていきました。

名前は「マイルドブレンド」としました。
「マイルド」はコーヒーの世界では「水洗式」を示す符牒です。
コロンビア、ケニア、タンザニアの水洗式ですっきりした酸味を感じさせるコーヒーが欧米の市場で珍重され、ニューヨークの食品相場市場で「コロンビア・マイルド」という独立した区分名を持っています。
しかし今やマイルドの名にふさわしいコロンビアコーヒーは非常に希少で、生産効率の高い替わりに品質に劣る新しい品種への植え替えが進んでいます。
かつて世界で賞賛されたキレのある味を、この新しいブレンドに担って欲しいとの思いで名前を付けました。


10年のご愛顧のご恩返しに精一杯お作りしたつもりです。
新しいブレンドをよろしくお願い致します。
また、次の10年も精一杯精進し、また何か新しい価値を作り出せるよう心をこめてコーヒーを淹れてまいります。
併せてよろしくお願い申し上げます。

2014年3月20日木曜日

カフェジリオ、7周年を迎えました。

2007年3月20日に、札幌の宮の森という住宅地の路地にこのカフェジリオを開店してちょうど7年が経ちました。
本当にあっという間の7年間でした。


自分の中に喫茶店という将来像が浮かんだのは、やはり喫茶店でのことでした。
高校生の時、剣道部の練習帰りに「鉄舟」という喫茶店によく立ち寄っていました。
僕はタバコもやらなかったし、アーケードゲーム(当時はもうインベーダーが終わってギャラガとかが流行っていました)も人のプレイを見ているだけ。
友人たちのちょっとした「武勇伝」を聞いて笑っているだけでした。

そんな僕に苛立っていたのかもしれないな。
お店のお姉さんが、ある日たまたまカウンターに座った僕に「あんたタバコも吸わないの。やー、なんか乳臭いねー」と言ったのです。

言い返す言葉もなく、曖昧に笑った僕の心の中では、「大人になる場所」としての喫茶店の存在が強く刻み込まれていきました。
そしてその強い印象は、「大人になった自分は、一体何をする人になるのだろう」という、誰でもその年頃に考えるテーマに、自然に結びついていき、しかし、何も知らない子どもだった僕は、「乳臭い」自分から脱却したいという気持ちを、ネクタイ絞めて、七三に分けた真面目サラリーマンみたいなものにはならないぞ、というまるで見当違いのイメージに結びつけてしまったのです。


その後、大学に進学した僕は、フォークソング研究会というサークルに入って音楽三昧の日々を過ごすのですが、音楽で生きていくってのもいいなあ、なんてこれまた甘い幻想を抱く世間知らずの僕の前に、当時サークルに在籍しておられた松崎真人さんという、在学中にプロデビューしたシンガーソングライターが現れるのです。

サークルのオーディションや演奏会で時折松崎さんの歌を聴く機会があるのですが、なんかもう全身から放ってるものが全然違うんですね。
練習してなんとかなるような、そういう部分じゃないところに大きな違いがあるのがどうしようもなく感じ取れてしまうんです。
少なくとも自分の中にそういうものはない。
ああ、音楽で生きていくってこういうことなのか、と自分自身の甘さのようなものをやっと10代の終わりにして実感しました。


そのサークルの部長を僕は務めたのですが、先代の部長が就職していたリクルートという会社を僕も選んで社会人になりました。
入社前に北海道支社でアルバイトをさせてもらったのですが、その時広告制作セクションのチーフが、ある広告を見せてくれました。
札幌コンピュータ専門学校(現札幌情報未来専門学校)の募集広告で、大きな筆文字で「とりあえずコンピュータ、なら大学へ行ってください」(広告は手元になく、うろ覚えです。すみません)という挑発的なキャッチが書かれていました。

僕はその広告を見て、予備校時代に知り合った札幌コンピュータ専門学校の友だちのことを思い出しました。親に専門学校進学を反対されて学費を出してもらえなかったので、新聞配達などのバイトをしながら学校に通っていた彼は、疲労困憊に見えました。
どうしてそこまでして、と聞いた僕に彼は「いや、コンピュータで生きていくことにもう決めたからしかたないんだ」と言ったのです。

その時感じた、自分の進む道を決めた者の覚悟のようなものが、広告からも感じ取れました。(この仕事は面白そうだぞ)と思い、学校広報の部署への配属を希望しました。


4月に入社して、幸いにも希望通りの部署に配属されました。
新人研修が終わって本配属になった新宿のオフィスに行くと、同期入社で同じ北海道出身の女の子が同じ課の配属だとわかりました。
何気なく、「なんでリクルート選んだの」と聞くと、子供の頃からお菓子職人になりたかったけど、家が農家で学費を出してもらえなかったから、お給料いい会社に入って資金を作って製菓学校行こうと思ったの、と言う。

ここにもまた自分の道を決めて進んでいる人がいた、と思いました。
すでにお察しのことと思いますが、彼女が現在のカフェジリオのパティシエであり、僕の家内になる人です。
僕は彼女と話しているうち、高校生の時に抱いた「喫茶店」という未来を思い出し、そここそが自分が何者かになる場所とイメージしていたことに思い至って、僕自身も何者かにならなければ、と強く思うようになりました。
そして、彼女は予定通り4年でその会社を辞め、学校に行き、お店に入り、ドイツでの修行も経て、開業の準備を進めました。
僕はその会社で18年、いろんな経験を積ませてもらいながら資金を用意しました。

そして僕らは7年前に、彼女のはっきりした直進性をもった夢に、僕の未熟な思いから生まれた夢ともいえないイメージを仮託して、カフェジリオというカタチを作ったのです。
おかげさまで、想像もしていなかったほど順調で楽しい7年間でした。感謝の気持ちはとても言葉にはなりませんが、美味しいケーキとコーヒーを作る続けることが何よりのご恩返しと心得て、今日から8年目の営業に入ります。
変わらぬご愛顧をお願い申し上げます。

2012年12月23日日曜日

その夢なら、今でも僕が預っている。:The road to Cafe GIGLIO part-5,Last Episode.

クリスマスになると、決まってポーグスとカースティ・マッコールのデュエットによる「ニューヨークの夢」をかける。
なぜ、この曲をかけるのかについては毎年書いているが大事な話なので今年も書く。しかも今年は、ブログも引っ越しているし、旧ブログの方にもこのエントリーを何度も読みたいので消さないでくださいとリクエストをいただいているのだ。BloggerのCafe GIGLIO Blogの方にも、このエントリーを残しておく意味も含め改めてアップします。

この曲に描かれているのは、アイルランドから夢を追いかけてアメリカに移住して来た移民の物語で、なかなか成功を掴めず年老いてしまった夫婦が、若い頃の出会いから始まり、クリスマスの夜に飲んだくれて警察に拘置され一夜を明かした翌朝の会話で終わる。
その会話がこれだ。

「俺には明るい未来があったはずなのに・・」

「そんなこと誰にだって言えるわ!
「最初に知り合った時に、あなたは私の夢を持って行っちゃったのよ」

「ああ、その夢なら俺が今でも大事に預かっているよ
「自分のと一緒にしまっているのさ
「俺はどうせ一人でやっていけるような強い男じゃない
「君がいなければ夢を持つこともできないんだ」

・・何度読んでも泣ける。
そうだ。僕はこのご老人の言い分に激しく共感している。

現代の日本を生きる僕たち夫婦は、幸運に恵まれて夢のひとつを叶えて、こうして札幌でケーキ屋さんを開くことができた。
でも思い返すと僕の心にあったのは「サラリーマンにはなりたくない。けど今の自分に何ができる?」ということだけだったのかも知れない。
消極的な選択肢として「喫茶店ってのもいいかなあ」と思っていた僕の前に、子供の頃からの「ケーキ屋さんになりたい」という夢を実現するための資金が欲しくて就職しましたっていう人(家内デス)が現れて、自分の考え方の甘っちょろさに深く恥じ入ったのだが、図々しい僕はその人の「意志」に自分の漠然とした希望を仮託することで、形をもった「夢」に変えてもらったのだ。
そうしておいて、僕らは二人分の夢を束ねて半分ずつの力で実現したのだった。

そして強欲な僕らは、二人で作ったもうひとつの夢を持っている。
家内の菓子職人修行のスタートがたまたまイタリア料理店のドルチェ担当であった縁で、イタリアという国に興味が湧き、二人でイタリア語を学び、実際に何度もイタリアに出かけた。
バイオリンが生まれた街クレモナには音楽が溢れ、欧州文化の故郷フィレンツェには今の我々の生活のルーツが眠っていた。
ヴェネツィアには職人の誇りが息づき、シエナには静謐な「生活」がゆっくりした時間の中をたゆたっていた。

この国で暮らしたい!
誰だってそう思うだろう。
僕らもそう思った。

パリもベルギーもドイツもそれぞれに素敵だったが、イタリアは別格だ。
二人でお店をやって、歳を取ったらイタリアに住もうと約束した。


「その夢なら、今でも僕が預かっている。」
クリスマスが来る度に、ポーグスの「ニューヨークの夢」を聴きながら、その約束が風化していないのを確かめる。
そして、二人分持ったのに重くならずに、足取りが軽くなる「夢」の不思議を思いながら、僕達の「ロード・トゥ・カフェ・ジリオ」を今日も二人で歩いて行くのだ。

The Road to Cafe GIGLIO,The End.


2012年11月27日火曜日

受け継ぐべきもの:The road to Cafe GIGLIO part-4

リクルートにいた頃、専門学校さんに募集広告のご提案をするのが私の仕事だった。しかし、広告というものは所詮学校の力以上のものは発揮できないものである。問題はその学校の良さ、というものが学校自身にも認知されていないというところにある。それは創業者の人生まで含めた「歴史」の中や、現在生徒を教えている「先生一人ひとり」の中に眠っているのだ。
だから取り急ぎ、それは揺り起こされなくてはならない。そしてご自身たちの口によって、同じ言葉で繰り返し語られなければならない。

と、いうようなお話を学校の経営者の皆様に申し上げると、よく「今の話を職員に話してくれないか」と言われた。そして研修が企画され、せっかく場をいただいたのだからと、そこで職員の皆さんと簡単なゲームをやって、教職員の皆さんの中に眠る学校の魅力を言語化していった。

手間がかかり、時間がかかり、効果もゆっくりとしか現れないが、確かな手応えのある方法だと思う。
だから自分の事業を作り上げる時だって、もちろん同じ事をやったのだ。
自分の事業と言ったが、この事業のコアはパティシエである家内のケーキ職人になりたいという強い思いにある。
だから店名にもパティシエの名前である百合子をイタリア語にしてGIGLIO(ジリオ)と付けた。それがイタリア語なのは、彼女がはじめてパティシエとして働いたお店が三軒茶屋の「ペペロッソ」というイタリア料理店であったことに由来している。その店でイタリアの文化に触れ、惚れ込み、長い休みの度にイタリアに行くようになり、ある年、シエナで見かけた小さなホテルの壁に描かれた百合の花とGIGLIOというホテル名を見て、あ、これだな、と直感したのだから。

その後、ペペロッソの社長が、「本格的に菓子をやりたいなら、友人のやってる菓子店を紹介してやる」と言って下さって、移ったのが「ヒサモト洋菓子店」で、日本洋菓子協会の初代会長の久本氏が昭和15年に開いたという老舗。お孫さんである三代目が経営者だった。残念ながらご病気のため2005年に逝去され、お店も閉店となってしまった。

しかし、今でもヒサモトのケーキや焼き菓子のファンは多く、ヒサモトと同じスタイルの丸いショートケーキを、検索で発見して東京から食べにいらしたお客様もいたほどだ。

日本の高度成長期、東急グループの総帥であった五島昇氏は、東急田園都市計画を策定し、渋谷、三軒茶屋、自由が丘、といった地域に商業施設をセットした住宅都市を作り、それを電車・バスなどの交通網で結んだ。ヒサモトの創業者、久本晋平氏はこの東急田園都市計画に賛同して、東急沿線に店舗を拡大していった。豊かになっていく日本の家庭で、休日の団欒を暖かい色彩で彩る洋菓子を提供してヒサモト洋菓子店は大きくなっていった。
ヒサモトのレシピは、奇をてらったところはないが、口に入れれば優しくて暖かい味がする。それこそがヒサモトが時間をかけて磨いてきた家族の団欒を彩る力であったのだ。

この「歴史」こそが我々が継承すべき「情熱」であり起点とすべきものだ、と思い定め具体的な商品の設計を行う。そのひとつの到達点が「卵」であった。
素材を吟味していくうちに、ケージに閉じ込められ工場で大量生産されるように作られた卵と、人の手をかけ自然に近い状態で、自然な餌を食べて育った鶏が産んだ卵ではこんなにも味が違うのかと驚いた。近郊で「平飼い」で鶏を育てている農家さんの卵をいくつか試して、ケーキやプリンとの相性がいい余市の「滝下農園」さんにお世話になることに決めた。


当時、我々も子育ての真っ最中だった。だからあたたかい家族のふれあいを彩るためのケーキの味を、命の源である卵が作るというのは至極当然のことに思えた。
だからこの店のシンボルマークを、卵を産んでくれる「鶏」にしたのだ。

デザインはリクルート時代にお仕事のことやら遊びのことなんかも教えていただいた大先輩の大嶽一省氏にお願いした。現在はご自身の事務所をお作りになって制作物の範疇にとらわれない広い意味で様々な「コミュニケーションのデザイン」をしておられる。当店のデザインでも、ロゴマークをデザインするにとどまらず、「卵の味」を最もストレートに伝えるシュークリームに「ママのシュークリーム」と名付けるといった、コミュニケーションのフレームワークに踏み込むデザインを施していただいた。

ある日、女性のお客様が帰り際に、「このお店のショートケーキを食べたとき、何年も前に亡くなった父が、子供のころによく買って帰って来てくれたケーキの味を思い出しました。なんだか、あったかい味のするショートケーキですね。」とおっしゃってくださった。「ありがとうございます。」と答えながら、「あったかい味」という表現が、この方がお父様に寄せていらしたのであろう愛情を感じさせて、不覚にも涙がこぼれた。

そして、我々が受け継いだ歴史が、心をこめて作っていただいている食材が、そしてそれらを巧みに組み合わせてデザインされたコミュニケーションのフレームワークが「届いた」と思った。
こんなうれしいことはない。
仕事を通じて得られるヨロコビというのは、どんな仕事でも一緒なんだね。

2012年11月19日月曜日

ドラッカーが教えてくれた路地裏のカフェの経営:The road to Cafe GIGLIO part-3

電話帳に「喫茶店」というカテゴリーで電話番号を載せているから、こんな小さなお店にもひっきりなしに広告代理店の売り込みの電話が来る。ことに今はインターネットの時代だ。しかし、僕は、18年も広告の営業マンをやっていたから身に沁みてわかるのだけれど、こういう店に、広告を売り込むのは本当に難しい。


「リピーターを増やすためのメールマガジンシステムを導入しませんか」
「すでに、ほぼリピーターのみで経営をしていますが。」
「はあ、そうですか」

「Yahoo!の検索ロジックが大きく変わりましたので、新しいSEO対策が必要です」
「お客様のご紹介で、新しいお客様が増えていく経営を志しておりますので、SEO対策になるようなことは慎重に避けております。」
「はあ。そうですか」

別に悪気はないのだが、会話は成立しない。
電話をかけてきた方も不思議に思うだろう。お客さんはたくさん来た方がいいと思っているからだ。何しろ彼らは、この店がどんなとこに建っているか見てもいないのだから無理も無い。
このあいだ、電光掲示版の看板の営業マンが飛び込みで来たが、周囲を見渡し、
「ここでは、やっぱいらないですかね」と言って帰った。
そういうことだ。


営業マン時代に大変お世話になった専門学校の広報部長は、
「本当に素晴らしい学校になれば広告はいらないだろう。その素晴らしさとは、学校の場合は教育内容のことだろう。だから教育内容に、まだ不十分なところがあるから広告に頼っているわけだが、いったい何を広告に書けというのだね?」とおっしゃった。
無論、思考ゲームのようなものだし、充分反論もできるが、なるほど一般論的な広告というものの限界点を上手に指摘していると思い、考え込んでしまった。
考え込んで、それってこれのことだよな、と思い出したのがドラッカーだった。

「企業の目的の定義はひとつしかない。イノベーションとマーケティングで顧客を創造することだ。」という超有名な名言の補足にある、「マーケティングとは、買わないことを選択できる第三者に、喜んで自らの購買力と交換してくれるものを提供する活動のことである。 マーケティングの狙いは、顧客というものをよく知って理解し、製品が顧客にぴったりと合って、ひとりでに売れてしまうようにすることだ。」というこの言葉。
広告の必要の是非を超えて、経営努力の本道を指し示す不滅の真理だ。
当店にお電話いただく、営業の皆様には謹んでこの言葉をお送りしたいと思う。

そして、我々もこの言葉を起点にカフェジリオという「家業」をデザインしている。
「イノベーション」という言葉は、革新するという意味だが、ドラッカーがその言葉を使う時、マーケティングの結果を経営に取り込むことを強く意識している。
そしてその「マーケティング」とは、「市場を知る」ということであり、気の利いた宣伝文句で商品の欠点を覆い隠すことではないのだ。
スターバックスのコンセプトはよく知られているように「第三の場所」というものだ。職場でも家でもない、第三の「場所」を提供することが彼らの主務である。
私たちの店のコンセプトは「現代のオイコス」であるから、地域社会に調和して、我々の持つリソースを役立ててもらう、ということが目的、ということになるだろう。そして我々の持つ優位性の高いリソースといえば、「味」しかない。だから我々の注力すべきイノベーションは、良い味を生み出すための工夫以外に求めるべきでないと思う。
限られたリソースで長く経営するためには「コア」に負担をかける戦略を選択すべきでないということも重要な要素だ。

この店の立地は、そのコンセプトを最も顕在的に表現した戦略だ。
路地裏にあるから、地域の人たちには認識してもらえる。情報を漁って付加価値を求めてカフェめぐりをする人ではなく、「ここ美味しいのよ」というリアルな人間関係の中で紹介してもらえる。そういう我々の提供できる商材とズレのない期待に応えるべく頑張ればいい。だから付加価値に気を取られずに味の研鑽に邁進できるし、そういう日々そのものが生きる楽しさに充ちている。
もちろんそれは我々の都合であって、わかりにくい場所をわざわざ探して来ていただくことのエクスキューズにはならない。いつも来ていただくお客様には本当に感謝しています。

また、ドラッカー自身は、「利潤の追求」は長期的に見ると会社の存続に悪影響を及ぼすことが多く、企業の商材が社会に価値を生み出していくことこそが経営の要諦であるという言い方をしている。
我々のような小さな事業ではこのことはまさに真理で、身の丈を超えた利潤を得るために考慮しなくてはならない「付加価値」は、いつか必ず自分たちに重い負担となって返ってくるだろう。

これからもなるべく「付加価値」に背を向けて、地域と我々自身の家業のために頑張って行きたい。

なお本稿の「ドラッカーが教えてくれた路地裏のカフェの経営」というタイトルは、カフェジリオの常連のお客様でもある株式会社インタフェース代表取締役の五十嵐仁様が企画された講演会でお話させていただいた際、五十嵐様に考えていただいた講演タイトルで、以来気に入って人前でお話をする機会がある度に使わせていただいている。改めてご紹介して御礼申し上げたい。

2012年11月14日水曜日

カフェをデザインするということ:The road to Cafe GIGLIO part-2

お客様の中には、将来的にカフェを経営したいとお思いの方もけっこういらっしゃって、私たちのカフェジリオのデザイン、家具、食器など細部に至るバランスに興味をお持ちいただいて「いったいどのように構想されたのか」と質問を受けることもよくある。
そう言っていただけると正直とてもうれしい。

本当は食器だって、家具だって、東京中歩いて、札幌中歩いて、インターネットもできるだけくまなく徘徊して、吟味して吟味して選んだのだ。
で も最終的にカフェジリオというパッケージにある種の「雰囲気」をもたらしているのは、店全体のデザインだ。このデザインがあったからこそ、そこにピタッと はまるものを選ぶことができたのだと思う。だから、ご質問してくださったお客様には、この店のデザインをどうやって構想したのかをお話しすることにしてい る。

で、それは実にシンプルなお話だ。


「このスピーカーに似合うお店を作って下さい」と言ったのです、と。

そしてこれはほとんど実話だ。

会 社員時代、私は広告を売る営業マンで、お客様の要望をマーケットに照らして制作サイドと広告を作ってきた。あまり細かい指示を出して作られた広告はすべて の要望を叶えようとするあまりピントのぼけたものになりがちで、しかもあれもこれも書いてあるので、お客様が細々と直したくなってくる。で、その修正を反 映させていくとますますぼけていくものだ。だから、一番大事なことだけ伝えて自由に作ってもらう。あとは出来上がったシンプルで力強いメッセージが「どう 社会を変えるのか」をプレゼンすればいい。たいていの場合、それはうまくいった。
だから自分でお店を作る時もそうした。


問題は自分にとって何が一番大事か?だった。

会 社員時代の終わり頃、向かいの席に座っていた大先輩は、(我々は学校広告を作っていた)「その学校の最も中核を成す特徴は、その学校ができる以前に、創立 者が様々な道がある中でわざわざ学校を作るという道を選んだきっかけの中に潜んでいる」と信じていた。だから当時を知る関係者やご本人にインタヴューを重 ねて、それらしき仮説を見つけると、現在教壇に立つ先生たちに「最も教育成果があがったと思うご自身の経験」をインタヴューして、それらを重ね合わせてみ ると、創立時の思いが何十年たった今でも脈々と学校の中に生きているのを発見して、学校の方も我々もびっくりする。
そしてそういうシーンに私たちは本当に何度も何度も立ち会った。


では自分にとってのそれは何か?

喫茶店が自分の未来の可能性のひとつとしてカタチになったのは多分予備校時代のころだと思う。
高 校は地元釧路の進学校で「元神童」たちがわんさか集まっていて、自分などは中の下が精一杯なんだと思ったし、中学時代部長までつとめた剣道を続けようと剣 道部に入ったら、世の中には化け物みたいに強い人がいっぱいいるのだと知った。 音楽が好きで作曲なんかもしていたが、一つ上に、後にZiggyのドラマーになる大山さんがいたり、同学年にMINKSでプロデビューした岡田ヨシアキく んなんかがいて、段違いの才能を感じた。
案の定大学受験にも失敗して、札幌の予備校に入った。
寮に入って、よく深夜にヘッドフォンでラジオを聴いていた。さだまさしさんの「案山子」がかかって聴くともなしに聴いていたらふいに涙が出てきて止まらなくなった。
小学生の時、友だちの家でお姉さんのものだというベイ・シティ・ローラーズのレコードを聴いた時。
中学生の時、はじめて買ってもらったシステムコンポでエアチェックしたFM放送の甲斐バンド・ライブを聴いた時。
音楽はいつもふいに心を激しく揺さぶる。
どんな人生になるにせよ、ずっと音楽と一緒にいようと思った。

その時ふと頭に浮かんだのが、喫茶店を経営して好きな音楽をかけて過ごすという日々だった。
むろん、甘っちょろい幻想だ。現実になるとも思っていなかった。
でもなんとなく自分らしいかも、と思って親しい友人にはこっそり話した。

そ の後、大事な出会いがあったり、会社での仕事を通じて学んだこともたくさんあって、頭にふと浮かんだ、好きな音楽が鳴っているだけの喫茶店は、「路地裏」 という骨太のコンセプトを得て25年もかけて大きく成長して今の形になった。しかし間違いなく「音楽が鳴っている」ことが一番重要で、だから一目惚れで 買ったこのタンノイのグリニッジというスピーカーこそがこの店の姿を決めるべきキー・フレームだと思ったのだ。

愛機グリニッジは、今日も快調にハンク・モブレイのジャズを鳴らしている。25年前思い描いた音とはずいぶん違うけど、きっとずっとその時々のカフェジリオの音を鳴らし続けてくれるだろう。それができるだけ長く続くといいと思う。

2012年11月5日月曜日

エコノミーとエコロジー:The road to Cafe GIGLIO part-1


人通りのない住宅街の真ん中でカフェなどをやっていると、皆さん不思議がって下さる。

「もともと、この家を持っていて改装したんですか?」
「いいえ、このお店を作るために買った土地です。」

「相当宣伝しないと、お客さんこないでしょ?」
「おかげさまで、お客様のご紹介で、生産できる量に見合ったお客様にお越しいただいています。」

「え、6時までしかやってないんですか。明日はやってますか?ええっ、日曜日が休み?」
「すみません・・・」
「ああそうか、趣味でやってるお店なんですね。」
「・・・・」

相当不思議なのだと思う。
だからなのか、異業種交流会を主宰する先輩や、職業訓練の講演会、あげくに母校の北海道大学で就職講演などにまで呼ばれてカフェの経営についてお話をする機会をいただいたりする。
せっかくまとめたので、そういう時にお話する内容をかいつまんで書いておこう。

この店の着想を抱いたのは20年くらい前のことだけど、その時から「大きい通りの一本内側の路地」で「一階が店舗で二階が住宅」という明確なイメージを 持っていた。実際は二本内側になっちゃったけど、ほぼイメージ通りに店を作った。

経営的な見通しのことは不思議なくらい考えなかった。
決めていたのは夫婦二人だけでやるということ。
だから、商品を作れる量が決まっているわけで、なるべく明快なコンセプトを決めた方がいいと思った。いやそうでなくてもコンセプトは明快な方がいい。誰でも来れる店は、誰も来ない店になるから。

ではなぜ、「家」で、なぜ「夫婦ふたりだけ」で、か。

私の前職は株式会社リクルートで、専門学校の募集広告を作る部門での営業担当だった。お客様である学校の経営者たちは、皆さん「いい学校とは何か」という大きな問いに悩んでいたように思う。だから我々もそれを知ろうと勉強会組織を立ちあげてみんなでやいやい議論した。いい学校とは何かを語ろうとした時、「学校とは何か」を決めておかなければ正しく議論することはできない。生徒一人が教師から何かを「学ぶ」。その学びの集合体が「教室」で、その教室の集合体を「学校」と呼ぶ、とその時は定義した。ははあ、では究極の良い教育とはそれぞれの生徒に合った一対一の教育でしか実現できないね、と気付いた。確かに王族や貴族の教育はそういうスタイルだったはずだ。近代の市民社会を支えるための経済性から生まれた制約が学校という組織形態だったのだ。
逆に言えば、品質を落とすことが利益に繋がる、という構造になってしまう。
なんだかこれは少しおかしいぞ、と思うようになった。

それで、もともと文学好きでしかも専攻は哲学科で夢見がちな性向が強く経済や経営のような実学には興味がわかなかった自分だが、経済や経営が不思議な人間の裏側を表現しているような気がして、俄然調べてみたくなったのだ。

調べごとには本当に便利な時代だ。図書館にこもったりすることもなく、ほどなく経済学=Economicsの語源である「オイコス」という言葉に行き当たった。これはギリシャ語で「家」を表す言葉で、ギリシャ時代すべての事業は「家業」であったことに由来している。
かの時代、家々はそれぞれに家業を営み、その連携によって社会を作り上げていた。
それぞれの家業の売上を最大化するための内的要因を考えるのが「オイコノミー」で、これが経済を表すエコノミーになった。
また、儲かりそうな事業があったとして、その市場に同業者がたくさん現れて共倒れになったりせず、むしろ相互利益が得られるようにコミュニティ内で事業設計していく思想を「オイコロジー」と呼び、これが後に「エコロジー」となる。
脱線するが、これが現在「エコ」と呼ばれているものの語源で、動植物の世界では多様な生物が非常に狭い世界(これが「ニッチ」で、現在ビジネスの世界で狭いマーケティング・ドメインを指す言葉の語源である)で少ない資産を共有するので相互利益を最優先して自らの身体までもデザインしているように見える。その様子が、互恵関係によって成り立つオイコロジーと似ているので、環境科学をエコロジーと呼ぶようになったのである。

家業というキーワードから派生した「経済」という言葉が、内的努力による発展と周囲との互恵関係との両輪で形成されていたという発見に私は夢中になった。これが答えだと思った。
品質を落とすことが利益になる、なんておかしな構造が成立するのは、ギリシャ時代と較べて圧倒的に「ニッチ」が大きくなったからに過ぎない。だから躍起になって「グローバリゼーション」をするのだ。歪まない方がおかしい。
品質を上げてこそ利益が生じるというタイプのビジネスはどうやったらできるのか、一所懸命考えたつもりだが、そんなこと思いつくくらいなら経済学者になれる。そうでない私は、「オイコス」を再現してみよう、と思い立った。コミュニティの希薄になった現代のオイコスのカタチを模索しようと決めた。

で、家を店舗にして夫婦だけで経営する店を作ろうと計画を始めた。
家を作ってくださったデザイナーさんにも、こういった趣旨についてお話をして設計していただいた。そのついでに、現代の経済が如何に宿命的に歪んでいるかをお話して、こんなシステム早晩壊れちゃいますよ、と言っていたらリーマン・ショックが起きた。言ってたとおりになりましたね、と言われた。ほんのちょっとだけ責任が重くなったような気がした。
もう開店して6年になるが、幸いスタートから安定した経営ができている。しかし、新しい時代の「オイコス」になれているかは心もとない。ますます、褌を締めて頑張って行きたい。