2014年3月13日木曜日

「偏差値」というスケープゴート

リクルートという会社で、18年ほど高等教育機関の募集のお手伝いをしていた。
高校生に配布する自社メディアを持っていたが、一般に「進学情報誌」と呼ばれるそのメディアにはいわゆる「偏差値」は記載していなかった。

その頃、僕たちは「偏差値」に依らない学校選びを高校生にしてもらおうと必死だった。
だからといって、偏差値廃絶を叫んでも解決にはならない。

僕たちはまず学校を「知る」ところから、いつも仕事をはじめた。
同じ薬学を勉強するのでも、学校によって学び方は違う。
有名教授で選んでもいいだろうが、例えばゼミのありかたとか、産業界との距離のようなものでもずいぶん学校での学びの姿というのは変わってしまうもので、そのような複層的な情報をどのように情報誌上に「編集」するか、いつも頭を捻っていた。

そのような作業から出てくる学校の個性の表出は、パンフレットの表現などにも落とし込まれるが、入試にももちろん大きな影響を与える。

伝統のある薬学系の名門大学に入試のことで相談があると言われ、お伺いすると「人道的な感性」を問う入試についてのご相談だった。
「頭だけいいやつが医道に入ってくるとろくなことがない」とその人は言った。
僕は深く頷いた。

また保育系の学校では、「保育の世界で幸せになれるのは、子どもを好きな学生ではなく、子どもに好かれる学生なんです」と聞いた。
学生たちに未来の可能性を伝える難しさに、心を引き締めた。


学校の現場では、世の中が偏差値偏重になっているかどうかに関わりなく、そこで学ぶ人と人材が巣立っていく産業界のことを考え、模索し、変わり続けているのである。

日本の教育に問題があるとすれば、それはむしろ過度の偏差値アレルギーが引き起こしているのではないだろうか。



茂木先生の偏差値批判騒動のおかげで見つけた「偏差値が重視されるたったひとつの理由」という記事を読ませて頂いて、平成になってからこっち絶えることなく提言されている偏差値偏重批判の内実が見えてきたような気がする。
偏差値アレルギーのエッセンスが集約されていると思う部分を以下に引用する。
偏差値などというつまらないものを上げるための勉強ではなく、自分の思考に組み込まれて、血肉となるような知識を身につけてください。
偏差値は何の役にも立ちません。犬も食わないくだらない指標です。
 しかし血肉となった奥深い知識は、必ずあなたの人生を助けます。誰かの言い分を鵜呑みにしない自立した個人になるためには、多様で厚みのある知識が不可欠です。 
受験ゲームに興じる親たちのためではなく、あなた自身のために、しっかりと勉強しておくことをおすすめします。



ここでの問題は、初等・中等教育で学ばれる<カリキュラム>が「何の役にも立たない」と断言されているところにある。
そしてそこには「多様さ」や「厚み」が欠けている、と断罪している。

しかし、小学校から中学、そして高校に至って完成するように設計された日本の教育指導要領は、我々人類が長い時間をかけて得てきた文明の歴史をコンパクトに再現しているのである。

高度な思考は、高度な言語を以って為される。
高度な言語とは高度な概念ということで、それ自体がある種の構造と歴史を持っている。
換言すれば、それは「多様さ」や「厚み」そのものだ。
それは<教養>というカタチで児童、生徒たちに沈殿し、様々な個人的、社会的活動のさなかに、ベーシックなプロトコルを提供する。

それは、微分や積分が実社会にどのように役に立つのか、といったような話とはまるで次元の違うことが目的とされているのである。

どのみち職業的な専門知識としての微分積分は、大学に入ってから学び直さなければならない。そしてその専門的で実際的なレヴェルの知見というものは、数学なら数学だけの知識では学び得ないものなのである。

それを表現する観念的な言語の理解。
その理論が生まれた国の文化が、理論自体に与えた強い影響。
他者と議論して理解を深めるために必要な、言葉の選び方。

 様々な局面で、それまで学んできた<教養>が意識するとせざるとにかかわらず顔を出す。
そういうものだ

このような全体性を持った<教養>を滋養するために組まれたカリキュラムが無意味と断じられ、その無意味さの成果としてのみ偏差値が捉えられ、敵視されているとすれば、それは本当に残念なことだ。
 勉強というものは、それ自体が人類の英知の歴史を追体験する人生のフェーズなのである。

ギリシャで天文を知るために、手の届かない星の角度を計算する必要から三角関数は生まれた。

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神事を執り行う儀礼を正しく後世に伝えていくため多くの「文字」が生まれ、それが日常生活を規定する言葉に変化していく。

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人類は長い長い時間をかけて、我々自身の生活を豊かにしてくれた「智慧」を学問という体系に組み上げていった。
初等・中等教育のカリキュラムは、原初的で実利的な「知」が学問という体系になっていくプロセスを追体験するように組まれている。

それは人間が、変化し続けていく世界を生きていくための力を得る大切なステージなんだと思う。

だからブログ筆者が、呼びかけている「あなた自身のために、しっかりと勉強しておくことをおすすめします」という言葉の実現のためにこそ、学校での勉強を一生懸命やるべきなんだと思うのだ。

そして<教養>としてのカリキュラムを生徒に十全に伝授するのには、きわめて高いスキルが要求されるだろう。
それが現状充分か、と問われると、甚だ心許ないと言わざるを得ないとも思う。

僕はこの一点において、このブログの筆者と危機感を共有している。

 学校をとりまく、例えば保護者の存在や、行政からの干渉、歴史的な教育学部のスタイルのこと。問題は複雑だし、一般に知られていることはあまりにも少ない。
だからこそ、安易に「偏差値」というスケープゴートを祀り上げることには反対の声を上げざるをえないのだ。

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