2014年7月18日金曜日

焙煎“道”では辿りつけない「苦さの限界」

先日、ビジネスとしてではなく、個人として珈琲の焙煎をやっている方とお話をする機会があった。
食に関する書籍や雑誌を多く出版されている会社で編集者として活躍されていた方だった。

お話を伺うと、最初に与えられた仕事が、当時全国にちらほら出来始めていた、ラーメンで言えば「家系」とでもいうべき個人経営の自家焙煎コーヒーの喫茶店を廻って取材をするというものだったそうだ。

その人の口から語られた、黎明期の、実に個性的な焙煎者たちの情熱や信念に大きな刺激を受けた。
それは煎じ詰めて言えば、「珈琲はどこまで苦くできるのか」という問い、のように僕には聞こえた。



珈琲の飲料としての発祥は、伝説レヴェル以上のことはよくわかっていないが、人類史にはイスラム教の秘薬として登場する。
一義的にはイスラム教の戒律のひとつ、「炭を食べてはならない」に反しているにもかかわらず、それを曲げてまで、霊薬として珍重されたことに、「苦さの限界」を追求する試みは由来しているように思う。
炭になってしまう一歩手前でこそ、この霊薬の薬効は最大化されると考えるのは、とても自然なことだ。
それほどまでに、追い込んで焼いた珈琲豆が醸し出す味の複雑さは魅力的なのである。


僕自身の話をすれば、修行時代、三人のお師匠さんについた。
お三方とも実に個性的な焙煎の方法論をお持ちで、共通する部分はほとんどなかった。
しかし煎り止めに関してだけは、「深煎り」とか「浅煎り」というものは無く、ただ最適な焙煎ポイントがあるのみ、という考え方で一致していた。

修行時代は関東、関西、東海の有名店の珈琲を飲んで廻ったが、一般に老舗の名店では非常に苦く、重たい質感の珈琲が出てきて、僕にはその味がちっとも魅力的には思えず、いつも胸焼け気味で帰った。
若い焙煎士が家業として開いた自家焙煎のお店の珈琲はどれもすっきりしたフルーティな肌合いの珈琲が多く、好感が持てた。
僕もそのような珈琲を焼き、淹れようと勉強し、練習し、準備をした。

それなのに、このカフェを開いて、3年、4年と焙煎士としてのキャリアを重ねていく中で僕の珈琲は徐々に苦くなっていったようだ。そしてそれを「上手くなった」のだと思っていたのだ。
だから、冒頭に書いたように、珈琲というものの宿業が「苦さの限界」を求めさせるという話には実に納得感があった。


でもその時のお客様の判断はそうではなかった。

お客様は普通わざわざ「苦くなってるよ」と教えてくれたりはしない。
ただ来なくなるだけだ。
ただでさえ、近所には東大阪の珈琲の神様の息子さんがやってるお店や、有機栽培の豆だけを炭火で焼くというキャリアの長い焙煎専門店がある場所なのだ。


ある日、出身高校が同じだということで親しくしてくださるようになった大先輩の常連さんに「最近、ちょっと苦味が強いようなんだけど、もうちょっと苦くないのある?」と言ってくださったのがきっかけで、全体的にすべての豆が苦くなりすぎているかもしれないと、自分でも思うようになった。
それで、他のお客様にも苦すぎないかお聞きするようにしたら、その会話の中で、札幌の喫茶店の珈琲は一般に苦味が強すぎると感じている人が僕の珈琲を買ってくれているのだということがわかった。

確かに、いくつか視察に行った札幌の有名店の珈琲はどれも黒々と油の出た豆をネルドリップで抽出する深煎り珈琲だった。で、それを苦手にしている人は意外にたくさんいて、そういう人は仕方がないので機械で珈琲を淹れるお店に行っている、というようなことがわかってきた。

でも、やはり機械抽出では本当に美味しい珈琲はできない。それでそういう人は、いつも珈琲の美味しいお店を探していて、それでカフェジリオの珈琲に出会って、 苦すぎなくて美味しいと認めてくださって、このわかりにくい不便な場所まで足を運んでくださっていたことがわかったのだ。


もちろん「苦さの限界」を自分の好みとして追求しているお客様もいらっしゃるだろう。
しかし、その手の珈琲はわりとどこでも手に入るのが札幌という街だとすれば、珈琲を焼いている僕自身が美味しいと思う、寸止めの苦さで身を立てていくのが筋というものだ。
そのように思い直して、焙煎度の調整を行って、今の珈琲の味に落ち着いている。


と、いうような話をしたわけではないのだが、冒頭の方に僕の珈琲を飲んでいただいた時、「商売としてそういうことはできないと思うから、あくまでも焙煎士個人として、一度苦さの限界を引き出す長時間焙煎を追求してみたほうがいいですよ」と言われた。

珈琲を一口飲んだだけで、言っていないことまでいろいろ見ぬかれてしまった気がして驚いたのだが、真に驚くべきはそれに続いて披露してくださった長時間焙煎のいくつかのノウハウで、僕に焙煎を教えた先生方が聞けば、きっと眉を顰めるに違いない。
しかし、だからこその「苦さの限界」なのだろうとも思う。

コーヒー好きが転じてコーヒー屋になってしまったのではない、僕のような焙煎士は、どうしたって成長するためにリクツが必要で、それを突き詰めていくと「ねばならない」の集合体である「道(どう)」になっていく。
焙煎“道”では辿りつけない境地ということか。

その日から、そのことばかり考えていたが、ふと、長時間焙煎に関係するいくつかのポイントが、品質が大きく変化していて今一番悩ましいマンデリン豆の焙煎に応用できそうだ、と気付いて今朝試してみた。
ダンパーの操作を少し極端に行うことと、最終煎り上がり直前の火力を思い切って早く下げていくのだが、思った以上に効果があり、仕上がりの焙煎度は高くなるのに、トゲトゲしかった飲みくちが少し丸くなってくれた。
ロブスタとの自然交雑が原因と思われる香味はいかんともし難いが、全体的な重たさがずいぶん改善されたと思う。

焙煎をはじめて8年。
まだまだ駆け出しである。
だからこそオモシロイ、と思う。

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