2012年11月9日金曜日

カフェジリオさん「不認可」です。

この写真はカフェジリオの営業許可証。開店時に保健所からいただくものだ。二枚あるのは飲食店営業と菓子製造業を兼業しているからである。それぞれの許可は店舗の特定の「スペース」に対して行われる。主に食中毒のようなトラブルを起こさないよう適切な施設・設備構成になっているかを審査して許可される。
今回問題になった大学の認可に似ている。

我々の場合は建築が終わり最後の実地検分の時にオーディオ機器が飲食店営業許可部分に置かれていることが問題となり「不認可」となった。
コストと時間をかけ工事をやり直してやっと営業許可をもらった。事前の説明では営業に関係ないものは置かないでください、とのことだったがオーディオは僕の中では当然必須のものだし、カウンター内に機器のない店を逆に見たことがないのでそのまま作ったら、それは「調理に関係ないから」駄目だとのことだった。多くの店は何も置かずに実地検分を受け、許可をもらってから機器を置くのだそうだ。許可をもらってから全面改装した猛者もいると聞く。僕は長年憧れたMcIntoshのアンプを買ったのがうれしくてうれしくて、真っ先に機器を置いたのでこれが裏目に出たということか?いやいや遵法精神ですよ。それが一番。おかげで次の許可更新の時、なんの気兼ねもなく申請を出せるもの。

これが我々の小さい店の話だからいいが、大学の場合は、そんなことは到底出来ないほど大規模なコストがかかる。だから、この書類通り作ってくれたら認可をするから、と約束をして建設をスタートして最後に実地検分をして認可証を出す、という段取りになっている。だからもちろん書類を作るまでに相当緻密な審査をしているし、なによりも教育内容が大学教育に妥当なものか、という相当厳しいやりとりの末に認可の「約束」が取り交わされる。
昔お世話になった大学の新設学部はあまりにも先進的でなかなか時代が追いついて来ず、完成までに文科省とのやりとりを7年間もやった例があるくらいだ。
で、この段階を「申請書類を提出し、受理した」と呼んでいる。
ここから建築がスタートし、学生募集も開始される。
そして最後に、建築後の実地検分をして問題なしとなってから「認可」となるわけだ。

このように大学の新設認可の手順に使われる言葉は、通常我々に与える印象とかなり異なっている。実質的な「認可」を「申請」と呼び、そして実地検分の「合格」によってはじめて認可証が出て、これを「認可」と呼ぶのだから。

そしてこの「ズレ」こそが今回の問題の真の原因なのではなかったか。
田中文部科学大臣は、ご自身の教育行政のビジョンに基づいて、まだ「認可前」の学校の新設を却下しただけで、まさかそれがすでに実質的に認可を約束した後の突然のちゃぶ台返しになるんだなんて思ってもみなかったに違いない。

政治的な発言は厳に慎みたいが、この騒動が起きて以来「認可前に建物が建っているのはおかしい」などという言葉がよく聞かれるようになったので、黙っていられなくて書いた。

また、補助金が交付されているのだから無為に大学を増やすべきでないという発言もよく聞かれるようになったが、その認識も少し実態と違っているように思う。その根拠として「定員割れになった私大にも学生の数に応じてほぼ一律に配分されており、」などという言説を見かけるが、補助金は「一人あたりいくら」、というようなルール下で運用されているのではなく、教育事業の公的性格に配慮しての事業補助として行われている。だから定員割れの大学は教育事業としての公共性が他よりも劣ると判断して補助金を減額する仕組みを採用していて、その減額幅も2008年から暫時大きくして昨年2011年に最大50%までの減額体制を完成しているのだ。さらに、定員超過をしても補助金はカットされる。設備や教員は基本的に定員分しか用意されていないわけでオーバーすれば必要な教育の品質が保てないと判断されるからだ。また全学年が揃う「完成年度」まで補助金の申請はできない。

で、考えてみると現在すでに大学進学希望者は全員大学に進学できる「全入時代」である。だから大学の数が増えると、それぞれの学校の取り分が減り、定員割れの大学が増え(現在でも40%近くある)、しかも新設大学は卒業生を出すまで補助金を受け取る事は出来ないのだから、大学が増えれば、結果として拠出しなければならない補助金は逆に減るのではないか。

私学助成の要・不要の議論にまで踏み込むとなると、これとはまた別種のもので、公金の使途にまつわる憲法89条解釈とも相まって長く議論されてきた複雑きわまりないテーマなのであって、この問題と絡めてさらにややこしくしてしまうべきでないだろう。

最大の問題は、田中文部科学大臣が理由としておっしゃった「量より質」だろう。今回は新設大学の不認可で、学部増などは認可しているのだから、大学が増えると、学生の質が低下するというテーゼになる。

一般には、一教室あたりの生徒を減らすと「教育の」質は上がりやすい、と考えることができる。 だが、これは今回のケースでは関係ないか、または大学数が増え入学者が分散することで一教室あたりの学生数が減り、教育の質が向上する可能性すらある。

間口を小さくすることで、競争率が上がり、質が上がる(この場合は中等教育をより高度に理解した学生が入学する、という意味だ)ということがあるかもしれない。しかし、今は大学全入時代。入学定員が増えても増えなくても100%の間口は100%のままである。

そして、「質」がこの中等教育の理解度を指しているのだとすると、問題はむしろ中等教育の有り様にある、ということにならないだろうか。遡って初等・中等教育の改革に全力を傾けたいというのであれば大賛成だ。

そもそも「大学は多すぎる」のだろうか。
それを決めるのは何だろう。学生が集まらなければそもそも補助金も出ないのだから、淘汰は起こるべくして起こっている。だから今ある学校は、それぞれに入学した一人ひとりの大学生にとって意味のある選択だったのではないのだろうか。

僕自身は、1985年に長年住んだ釧路を離れて、北海道大学に進学し、札幌に出てきた。
はじめて親元を離れての一人暮らし。
日本中から集まってきたオモロイ同級生たちとの日々。
半分大人だけど半分子どもの都合の良い身分で、バンドをやったり、古本を買いあさって読んだり、学習塾や貸しレコード屋や引越し屋なんかでバイトをした。
それは自由な生活なんだと思っていた。
大学にもクラス担任がいて、大学生になったらこの本を読め、とエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を勧められてしばらくしてから図書館で読んでみた。
はっきりとはわからなかったけど、どうも今自分が楽しんでるこれが本当の自由っていうのとは違うんじゃないかとは感じた。
哲学科に進んではみたが、今学んでるこれが、一体何の役に立つのかはわからなかった。

でも社会に出て、いろんな困難に出会うたびに、それを言語化するためのヒントは大学時代に学んだことの中にあった。
時には解決するためのヒントも。
何より解決策を探るためのスキルは大学時代の同級生との放埒の日々や、サークル活動やバイト先でいろんな人間と出会ったことによって自分の中にすでに蓄積されていた。

そのような機会をより多くの人が与えられているというのは、この国にとってとても有益なことなのではないだろうか。
むしろせっかく与えられている知性のためのチャンスを最大限に発揮してもらうために初等・中等教育を何とかして欲しい。
そうして、はじめて日本の多くの若者が充分な基礎力を持って高等教育機関に進学し、人と出会い、本に出会い、音楽に出会い、映画に出会い、今より豊かな日本を作り出してくれるのではないだろうか。
僕はそう信じたい。

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