2012年11月9日金曜日

カフェジリオさん「不認可」です。

この写真はカフェジリオの営業許可証。開店時に保健所からいただくものだ。二枚あるのは飲食店営業と菓子製造業を兼業しているからである。それぞれの許可は店舗の特定の「スペース」に対して行われる。主に食中毒のようなトラブルを起こさないよう適切な施設・設備構成になっているかを審査して許可される。
今回問題になった大学の認可に似ている。

我々の場合は建築が終わり最後の実地検分の時にオーディオ機器が飲食店営業許可部分に置かれていることが問題となり「不認可」となった。
コストと時間をかけ工事をやり直してやっと営業許可をもらった。事前の説明では営業に関係ないものは置かないでください、とのことだったがオーディオは僕の中では当然必須のものだし、カウンター内に機器のない店を逆に見たことがないのでそのまま作ったら、それは「調理に関係ないから」駄目だとのことだった。多くの店は何も置かずに実地検分を受け、許可をもらってから機器を置くのだそうだ。許可をもらってから全面改装した猛者もいると聞く。僕は長年憧れたMcIntoshのアンプを買ったのがうれしくてうれしくて、真っ先に機器を置いたのでこれが裏目に出たということか?いやいや遵法精神ですよ。それが一番。おかげで次の許可更新の時、なんの気兼ねもなく申請を出せるもの。

これが我々の小さい店の話だからいいが、大学の場合は、そんなことは到底出来ないほど大規模なコストがかかる。だから、この書類通り作ってくれたら認可をするから、と約束をして建設をスタートして最後に実地検分をして認可証を出す、という段取りになっている。だからもちろん書類を作るまでに相当緻密な審査をしているし、なによりも教育内容が大学教育に妥当なものか、という相当厳しいやりとりの末に認可の「約束」が取り交わされる。
昔お世話になった大学の新設学部はあまりにも先進的でなかなか時代が追いついて来ず、完成までに文科省とのやりとりを7年間もやった例があるくらいだ。
で、この段階を「申請書類を提出し、受理した」と呼んでいる。
ここから建築がスタートし、学生募集も開始される。
そして最後に、建築後の実地検分をして問題なしとなってから「認可」となるわけだ。

このように大学の新設認可の手順に使われる言葉は、通常我々に与える印象とかなり異なっている。実質的な「認可」を「申請」と呼び、そして実地検分の「合格」によってはじめて認可証が出て、これを「認可」と呼ぶのだから。

そしてこの「ズレ」こそが今回の問題の真の原因なのではなかったか。
田中文部科学大臣は、ご自身の教育行政のビジョンに基づいて、まだ「認可前」の学校の新設を却下しただけで、まさかそれがすでに実質的に認可を約束した後の突然のちゃぶ台返しになるんだなんて思ってもみなかったに違いない。

政治的な発言は厳に慎みたいが、この騒動が起きて以来「認可前に建物が建っているのはおかしい」などという言葉がよく聞かれるようになったので、黙っていられなくて書いた。

また、補助金が交付されているのだから無為に大学を増やすべきでないという発言もよく聞かれるようになったが、その認識も少し実態と違っているように思う。その根拠として「定員割れになった私大にも学生の数に応じてほぼ一律に配分されており、」などという言説を見かけるが、補助金は「一人あたりいくら」、というようなルール下で運用されているのではなく、教育事業の公的性格に配慮しての事業補助として行われている。だから定員割れの大学は教育事業としての公共性が他よりも劣ると判断して補助金を減額する仕組みを採用していて、その減額幅も2008年から暫時大きくして昨年2011年に最大50%までの減額体制を完成しているのだ。さらに、定員超過をしても補助金はカットされる。設備や教員は基本的に定員分しか用意されていないわけでオーバーすれば必要な教育の品質が保てないと判断されるからだ。また全学年が揃う「完成年度」まで補助金の申請はできない。

で、考えてみると現在すでに大学進学希望者は全員大学に進学できる「全入時代」である。だから大学の数が増えると、それぞれの学校の取り分が減り、定員割れの大学が増え(現在でも40%近くある)、しかも新設大学は卒業生を出すまで補助金を受け取る事は出来ないのだから、大学が増えれば、結果として拠出しなければならない補助金は逆に減るのではないか。

私学助成の要・不要の議論にまで踏み込むとなると、これとはまた別種のもので、公金の使途にまつわる憲法89条解釈とも相まって長く議論されてきた複雑きわまりないテーマなのであって、この問題と絡めてさらにややこしくしてしまうべきでないだろう。

最大の問題は、田中文部科学大臣が理由としておっしゃった「量より質」だろう。今回は新設大学の不認可で、学部増などは認可しているのだから、大学が増えると、学生の質が低下するというテーゼになる。

一般には、一教室あたりの生徒を減らすと「教育の」質は上がりやすい、と考えることができる。 だが、これは今回のケースでは関係ないか、または大学数が増え入学者が分散することで一教室あたりの学生数が減り、教育の質が向上する可能性すらある。

間口を小さくすることで、競争率が上がり、質が上がる(この場合は中等教育をより高度に理解した学生が入学する、という意味だ)ということがあるかもしれない。しかし、今は大学全入時代。入学定員が増えても増えなくても100%の間口は100%のままである。

そして、「質」がこの中等教育の理解度を指しているのだとすると、問題はむしろ中等教育の有り様にある、ということにならないだろうか。遡って初等・中等教育の改革に全力を傾けたいというのであれば大賛成だ。

そもそも「大学は多すぎる」のだろうか。
それを決めるのは何だろう。学生が集まらなければそもそも補助金も出ないのだから、淘汰は起こるべくして起こっている。だから今ある学校は、それぞれに入学した一人ひとりの大学生にとって意味のある選択だったのではないのだろうか。

僕自身は、1985年に長年住んだ釧路を離れて、北海道大学に進学し、札幌に出てきた。
はじめて親元を離れての一人暮らし。
日本中から集まってきたオモロイ同級生たちとの日々。
半分大人だけど半分子どもの都合の良い身分で、バンドをやったり、古本を買いあさって読んだり、学習塾や貸しレコード屋や引越し屋なんかでバイトをした。
それは自由な生活なんだと思っていた。
大学にもクラス担任がいて、大学生になったらこの本を読め、とエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を勧められてしばらくしてから図書館で読んでみた。
はっきりとはわからなかったけど、どうも今自分が楽しんでるこれが本当の自由っていうのとは違うんじゃないかとは感じた。
哲学科に進んではみたが、今学んでるこれが、一体何の役に立つのかはわからなかった。

でも社会に出て、いろんな困難に出会うたびに、それを言語化するためのヒントは大学時代に学んだことの中にあった。
時には解決するためのヒントも。
何より解決策を探るためのスキルは大学時代の同級生との放埒の日々や、サークル活動やバイト先でいろんな人間と出会ったことによって自分の中にすでに蓄積されていた。

そのような機会をより多くの人が与えられているというのは、この国にとってとても有益なことなのではないだろうか。
むしろせっかく与えられている知性のためのチャンスを最大限に発揮してもらうために初等・中等教育を何とかして欲しい。
そうして、はじめて日本の多くの若者が充分な基礎力を持って高等教育機関に進学し、人と出会い、本に出会い、音楽に出会い、映画に出会い、今より豊かな日本を作り出してくれるのではないだろうか。
僕はそう信じたい。

2012年11月5日月曜日

エコノミーとエコロジー:The road to Cafe GIGLIO part-1


人通りのない住宅街の真ん中でカフェなどをやっていると、皆さん不思議がって下さる。

「もともと、この家を持っていて改装したんですか?」
「いいえ、このお店を作るために買った土地です。」

「相当宣伝しないと、お客さんこないでしょ?」
「おかげさまで、お客様のご紹介で、生産できる量に見合ったお客様にお越しいただいています。」

「え、6時までしかやってないんですか。明日はやってますか?ええっ、日曜日が休み?」
「すみません・・・」
「ああそうか、趣味でやってるお店なんですね。」
「・・・・」

相当不思議なのだと思う。
だからなのか、異業種交流会を主宰する先輩や、職業訓練の講演会、あげくに母校の北海道大学で就職講演などにまで呼ばれてカフェの経営についてお話をする機会をいただいたりする。
せっかくまとめたので、そういう時にお話する内容をかいつまんで書いておこう。

この店の着想を抱いたのは20年くらい前のことだけど、その時から「大きい通りの一本内側の路地」で「一階が店舗で二階が住宅」という明確なイメージを 持っていた。実際は二本内側になっちゃったけど、ほぼイメージ通りに店を作った。

経営的な見通しのことは不思議なくらい考えなかった。
決めていたのは夫婦二人だけでやるということ。
だから、商品を作れる量が決まっているわけで、なるべく明快なコンセプトを決めた方がいいと思った。いやそうでなくてもコンセプトは明快な方がいい。誰でも来れる店は、誰も来ない店になるから。

ではなぜ、「家」で、なぜ「夫婦ふたりだけ」で、か。

私の前職は株式会社リクルートで、専門学校の募集広告を作る部門での営業担当だった。お客様である学校の経営者たちは、皆さん「いい学校とは何か」という大きな問いに悩んでいたように思う。だから我々もそれを知ろうと勉強会組織を立ちあげてみんなでやいやい議論した。いい学校とは何かを語ろうとした時、「学校とは何か」を決めておかなければ正しく議論することはできない。生徒一人が教師から何かを「学ぶ」。その学びの集合体が「教室」で、その教室の集合体を「学校」と呼ぶ、とその時は定義した。ははあ、では究極の良い教育とはそれぞれの生徒に合った一対一の教育でしか実現できないね、と気付いた。確かに王族や貴族の教育はそういうスタイルだったはずだ。近代の市民社会を支えるための経済性から生まれた制約が学校という組織形態だったのだ。
逆に言えば、品質を落とすことが利益に繋がる、という構造になってしまう。
なんだかこれは少しおかしいぞ、と思うようになった。

それで、もともと文学好きでしかも専攻は哲学科で夢見がちな性向が強く経済や経営のような実学には興味がわかなかった自分だが、経済や経営が不思議な人間の裏側を表現しているような気がして、俄然調べてみたくなったのだ。

調べごとには本当に便利な時代だ。図書館にこもったりすることもなく、ほどなく経済学=Economicsの語源である「オイコス」という言葉に行き当たった。これはギリシャ語で「家」を表す言葉で、ギリシャ時代すべての事業は「家業」であったことに由来している。
かの時代、家々はそれぞれに家業を営み、その連携によって社会を作り上げていた。
それぞれの家業の売上を最大化するための内的要因を考えるのが「オイコノミー」で、これが経済を表すエコノミーになった。
また、儲かりそうな事業があったとして、その市場に同業者がたくさん現れて共倒れになったりせず、むしろ相互利益が得られるようにコミュニティ内で事業設計していく思想を「オイコロジー」と呼び、これが後に「エコロジー」となる。
脱線するが、これが現在「エコ」と呼ばれているものの語源で、動植物の世界では多様な生物が非常に狭い世界(これが「ニッチ」で、現在ビジネスの世界で狭いマーケティング・ドメインを指す言葉の語源である)で少ない資産を共有するので相互利益を最優先して自らの身体までもデザインしているように見える。その様子が、互恵関係によって成り立つオイコロジーと似ているので、環境科学をエコロジーと呼ぶようになったのである。

家業というキーワードから派生した「経済」という言葉が、内的努力による発展と周囲との互恵関係との両輪で形成されていたという発見に私は夢中になった。これが答えだと思った。
品質を落とすことが利益になる、なんておかしな構造が成立するのは、ギリシャ時代と較べて圧倒的に「ニッチ」が大きくなったからに過ぎない。だから躍起になって「グローバリゼーション」をするのだ。歪まない方がおかしい。
品質を上げてこそ利益が生じるというタイプのビジネスはどうやったらできるのか、一所懸命考えたつもりだが、そんなこと思いつくくらいなら経済学者になれる。そうでない私は、「オイコス」を再現してみよう、と思い立った。コミュニティの希薄になった現代のオイコスのカタチを模索しようと決めた。

で、家を店舗にして夫婦だけで経営する店を作ろうと計画を始めた。
家を作ってくださったデザイナーさんにも、こういった趣旨についてお話をして設計していただいた。そのついでに、現代の経済が如何に宿命的に歪んでいるかをお話して、こんなシステム早晩壊れちゃいますよ、と言っていたらリーマン・ショックが起きた。言ってたとおりになりましたね、と言われた。ほんのちょっとだけ責任が重くなったような気がした。
もう開店して6年になるが、幸いスタートから安定した経営ができている。しかし、新しい時代の「オイコス」になれているかは心もとない。ますます、褌を締めて頑張って行きたい。

2012年10月18日木曜日

BRUTUSの「おいしいコーヒー進化論」について

ブルータスの最新号がコーヒー特集だよ、と友人に教えてもらってコンビニに走った。
若い人達が出した新しいスタイルのお店が、どれも付加価値には背を向けてコーヒーの味に主眼を置いて事業をデザインしていることに好感を持つ。
少し前のカフェブームは、主価値がからっぽで付加価値しかないようなお店が多かったし、事実三年以上続いた人気店は殆ど無かった。確かにコーヒーの業界は進化しているようだ。

この特集では、コーヒーの新潮流に北欧風を据えて、「浅煎り」をキーワードとしている。
やれやれまた「浅煎り」か。

先日もNHKの朝イチ!で「女子のためのコーヒー学」というのをやっていて、コーヒーにはポリフェノールが多く含まれていて美肌効果があるというのがメインコンテンツ。ブルータスの特集にも出ていた女性バリスタが「浅煎り」にするとポリフェノールが失われなくていいんですよ、と解説していた。

数年前テレビ番組で、浅煎りコーヒーには満腹中枢を刺激する物質が含まれているのでダイエットに効くなどという妄言の類が出た。
その時名前の上がったのがマンデリンだったので、ウチみたいなところにも、最も浅煎りに合わないマンデリンの浅煎りを買いに来る人が数人だがいらしたことがあった。
これでまた、珈琲店に浅煎りコーヒーを求めて人が動くな、と思っていたが、今回のブルータスの特集でこの流れは決定的になるだろう。


カフェジリオを開店して以来、本当に多くの方にコーヒーの好みをお聞きしたが、その返答の99%が「酸味は苦手なんです」だった。
浅煎りコーヒーというのは酸っぱいコーヒーの事なのである。

しかも、コーヒーの味を作り出す800種とも言われる香味成分のほとんどは深煎りに近い状態にならないと生成されない。
さらに抽出時に発生する炭酸ガスが充分出ないため、フィルター内で粉が膨らまず、充分にお湯が回らないため、味を引き出すことそのものが難しくなってしまう。
(この点についてはブルータスにも書かれていたが、その理由を「浅煎りは水分が残っているため、粉が下に沈むから」としている。いかに浅煎りでも焙煎終了の豆温は200℃以下ということは殆ど無いはずで、とすれば水分が残っているという説明にはちょっと無理があるように思う。やはり炭酸ガスの多寡が原因と考えるのが自然だろう。)

北欧では確かに浅煎りがメインストリームのようで、このような抽出の難しい浅煎り豆から味を引き出すために、空気圧をかけて強制的に抽出する「エアロプレス」という器具があるのだそうだ。

エアロプレス コーヒーメーカー
AEROBIE (エアロビー)
売り上げランキング: 2,866

分類で言えば、フレンチプレスやサイフォンといった浸漬法系統の抽出法の発展形ということになるだろう。
抽出時に出る油脂分の香味を余さず抽出するかわりに、灰汁成分もコーヒー液に含めてしまう方法だ。

ブルータスの特集は本当にコーヒーのことをよく知っている人が監修しているようで、透過法の代表格ペーパードリップを擬似的に浸漬法の器具に変えてしまう方法まで紙面で実験している。
お湯を注いだ後「撹拌する」という方法だ。
こうすると、比重の軽い灰汁成分を上に残してわざわざ分離する透過法抽出に、強制的に灰汁成分をコーヒー液に戻すことになる。
この本来無意味で逆説的な方法をわざわざ掲載しているところに今回の特集の強い意志と徹底度が見て取れる。

しかし、これらの器具はその意味で味の出にくい浅煎り豆からなるべく味を引き出そうという目的に向いていて、しかもコーヒー抽出に向かない硬水しかないために、多くの方がミルクを入れる欧米のユーザー向きの商品だと言えるだろう。

日本でコーヒーの味は、日本人の繊細な味覚や素晴らしい水質などを背景に独自の進化を遂げた。
ドリップの時発生する灰汁が、温度が高すぎると多く出てしまうことや、時間的には2分30秒あたりから多くなってくることなどを突き止めて、これらを分離してドリップアウトするために優れた器具を作り技術を磨いてきたのである。
その味が認められてきたからこそ、ハリオのV60が今や世界中で使われているのではないか。

食文化の一部である飲料の伝統というものは一朝一夕ではできないものだ。
コーヒーの仕事をしていて思うのは、この国の珈琲文化はスターバックスという黒船をジャンプボードにして、やっと再スタートを切ったばかりではあるが、豆本来の味を最大限引き出すことを主眼に置くという、なかなか筋の良い方向に動き出しているということである。
できることなら浮薄な流行の中に取り込まれなければいいのだが、と願うばかりだ。


2012年10月11日木曜日

タンノイからかすかに流れる音楽に寄り添って。

カフェジリオの内装をデザインするとき、デザイナーさんにお願いしたことがふたつ。

ケーキはヨーロッパの長い歴史が磨いてきたものであるから、全体のテイストはヨーロッパ的であって欲しいということと、僕の大好きなこのイギリスのスピーカーが似合うものにして欲しいということ。





音楽に包まれて、これからの人生を生きていきたい。
それが会社員を辞めてこのカフェを開くときの大きな希望だった。

だから、お店に置くオーディオはそれなりに真剣に検討した。
しかし音楽好きではあっても、銀座にあった勤め先に近いところに住みたくて都心の小さなマンションに住んでいたから、何百万もするオーディオを買ったって宝の持ち腐れになると思い、でも調べたら絶対欲しくなるのだからと、なるべく目をそむけて生きてきたのだ。

何を買ったらいいのかわからなかった僕は、会社員時代のオーディオ好きの先輩にメールをして教えを請うた。
返信のメールには、こういうセットを買うと「わかってる」って感じのシステムになるよ、僕のアルテックのような音は出ないと思うけど、と書いてあって、教えて下さったセットも実際に見て聴いてなるほどだったのだけど、そのアルテックってどんななのー、と気になって気になって仕方なかった。

そして開店前に全国の有名喫茶店の視察の旅をしていた時、名古屋のコーヒー・カジタというお店で小さな音量で、しかし確かに響いてくる軽やかな音を奏でている小さなアルテックに出会った。それは本当にいい音だったが、先輩がなぜいい音なのに薦めてくれなかったかもよくわかった。

アルテックは映画館のサウンドシステムに使われたスピーカーなので、一般に大型機が多い。
しかしその音に魅せられ自宅で使いたいという時に日本家屋はあまりに狭い。
製品ラインナップに民生用のものもあるのだが、それでもデカイ。
SANTANAという好適なサイズのものもあるが、なかなか状態の良い物は市場に出てこないのだ。それで自分で箱を設計して発注して、という作業をしないと本当に良い音でアルテックを鳴らすことはできないのだ。件のカジタさんのアルテックも品の良い自作箱だったのだと思う。

それでアルテックを諦めて、まあそれならJBLかなあと思ったのだが、どれを聴いても新しいモデルは僕が通常聴いている音量では、なんだかモコモコした音で、お店の人にそういうとボリュームをグイッと上げて、ほおらいい音でしょう、と言う。
そうじゃないんだけどな、と思いながらオーディオの本なんかを買い集めて読んでいたら、やたらと「五味康祐」さんという作家の名前が出てくる。日本のオーディオシーンに大きな影響を与えた人らしい。調べてみると、タンノイ・オートグラフというスピーカーをこよなく愛し、多くの機器を遍歴したあげくに、最終的にMcIntoshのC22プリアンプとMC275パワーアンプでドライブしたという。

なるほど真空管アンプってカッコいいね、でも面倒そう。
それにタンノイってなんか古い感じ、などと思いながら全国の喫茶店巡りを続けていた。

最後に開店する予定の札幌のお店を回り始めて、西11丁目駅にあるBasicというお店に入ってカウンターに座ると正面にかの有名なタンノイのアーデンが!

中学生の時エアチェックが好きでFMレコパルのような雑誌をよく読んでいて名前だけはよく見かけた。でも音はちょっと冴えないなあ、って感じだった。

ふと横を見ると見たことのない小型のブックシェルフが置いてあり、見たところタンノイの製品のようだった。バッフルがコルク貼りでカッコいい。
お願いして席を移らせてもらい、そのスピーカーの横で音を聴いた。
これが、素晴らしい音だったのだ。

自然に胸に入り込んでくる音楽。何より上品で、人を威嚇しない低音。
これだ、これが僕の求めている音だと思ってタンノイの文字の下に書かれていたモデル名と思われる文字をメモした。

Greenwich

なんて読むんだ?グリーン・ウィッチ?緑の魔女?うん、なんかカッコいいじゃないか。と思ってググると、あ、グリニッヂね、なるほど。

で当然スピーカーはとっくにディスコンで、中古を探すことになる。
ネットで探せる大きな店には在庫はないみたい。ヤフオクに登録してしばらく放っておいて、タンノイが入手できるなら五味さんみたいにMcIntoshの真空管アンプってのもいいかな、なんて思ったのが運の尽きでこっちは探せばいくらでも出物があって秋葉原の中古店でC22プリの程度のいいのは高いからかえって新しいC2200の方がいいよ。今ちょうど知り合いから預かってるのがあって44万だけど、どう?という甘い言葉にまんまと乗って買ってしまった。

MC275も復刻版のデッドストックがあって、45万。
先にアンプが揃ってしまった。ちょうどヤフオクでグリニッヂの出品があり、運良く落札することができたので、このセットで開店する運びとなった。




ところが、開店してみると我々のカフェジリオの商品はやはりケーキがメインで、宮の森という場所柄もあってか静かに談笑されるお客様が多い。ボリューム下げてくださらない?と言われたことも二度や三度ではない。

もともとあまり大きな音は好みでない方ではあるが、お客様にとっては音楽は隣席とお話の音が被らないようにするためのカーテンのようなものなのだと悟るのにそれほど時間が要らなかった。

そうこうしているうちに長時間点きっぱなしの真空管が悲鳴をあげ始め交換することに。
全部でエントリークラスのアンプが買えてしまうような金額がかかった。ついでプリアンプのミュート・コンデンサが誤動作を起こして修理が必要になり、ここを潮時とプライベートで使っていたDENON PMA1500RIIという中級アンプをお店に、McIntoshの真空管ペアを自室に招き入れた。


DENONの音が好きだ。

けっこうきちんと視聴してもうこれしかないと思って買ったものばかりだ。だから一応気に入ってはいるが、これを目当てにお客様がいらっしゃるようなシステムではないし、なにしろ音量が小さい。あるオーディオ・ファイルのお客様は、「あ、今日は音楽かけてないんですか」とおっしゃったくらいの音量だ。

最初の目論見とはずいぶん違ってしまったが、今はこれでよかったのではないかと思っている。タンノイから流れるかすかな音楽に寄り添って、美味しいケーキと美味しいコーヒーのお店で頑張れるところまで頑張っていこうと思う。

ところで、以前JUGEMブログサービスで書いていたCafe GIGLIO Blogには、プライベートなオーディオライフについてもずいぶんエントリをアップしたので、お店でその音楽が聴けるのかと思っていらっしゃるお客様も多かったようだ。誤解を招く運営をして誠に申し訳ありません。今回のブログサービスの引越しに合わせて音楽系のブログをGirasole Records Blogとして独立させました。こちらもぜひご贔屓に。

2012年10月9日火曜日

ハンドピックは必要か

今朝はパプア・ニューギニアのコーヒーを焙煎した。焼きあがった豆が冷却器の中にあけられ風を受けながらぐるぐる回っている。その間中じっと目を凝らして焼き色や形状に違和感がある豆を探している。「欠点豆」と言ってカビが生えているものや生育不良のものなど様々だが味にも問題がある場合が多く、きちんと取り除かないとどれだけ上手に焙煎しても台無しになってしまう。



左にあるカタチの悪いふたつの豆が欠点豆。右側のカッコよく膨らんだ豆と較べると一目瞭然だ。焙煎してからだと差が明確になるため効率がいいのだ。今回1kgの焙煎で欠点豆はこのふたつだけだった。

よく、焙煎の本などを読んだり先輩焙煎士さんのお話を伺うと、焙煎前に皿に薄く生豆(なままめ、ですよ)をひいて欠点豆を手で取り除くハンドピックという作業がコーヒーの味を守るためにとても重要だという話を聞く。多い時は20%~30%も混じっているからねえ、と言う。20%~30%も混じっているのなら焼く前に取り除かないと、一回に焼ける量が決まっている以上非効率になる。確かに重要な作業だ。

しかし僕の三番目のコーヒーのお師匠さんは、「最初からそういう豆を買ってはいけないのだ。」と言う。
生産に気を使って、ブランドを目指している生産者は出荷前のハンドピックも徹底してやっているから、欠点豆などほとんど入っていないはずだ。入っていても小粒なのか生育不良なのか区別がつかないケースくらいだろう、と。

で、お師匠さんの薦めて下った生豆屋さんから、教えていただいたとおりに「プレミアム・アイテム」と呼ばれるリストの中からいくつか選んで焙煎してみた。本当に一回の焙煎で数えるほどの欠点豆しか入っていない。最後に冷却の時気をつけて焼いてはじめてわかる欠点豆を手で取り除けばいい。
確かにこういった良質の豆は価格も高い。札幌で自家焙煎をやっている喫茶店の店主さんとお話していて、そんな高い店から取ってるんですか、と驚かれることも多い。しかし、欠点豆のことを別にしてもこういう豆は味もいいのだ。逆に言えば出荷時のハンドピックに手をかけられない安価な豆は生産に関しても然りで味もそれなりだろう。出来上がりの味のことを考えて時間と手間をかけてハンドピックをしているのだとすれば、これは本末転倒ではないだろうか。
以前、「おいしい珈琲の真実」という映画で、エチオピアのイルガチェフェ・コーヒーのハンドピックの様子を観たが、整然として清潔な広い作業場でたくさんの女性が黙々と欠点豆をより分けていた。ああこれがあの綺麗な味を作っているのか、と感動したのを覚えている。我々が少しだけ高い金額を投じて、高品質のコーヒーを選ぶことが彼らの生活に還元されているのだなあ、と感じて、それ以来、多少高くても高品質のコーヒーを使い続けようと決めて、そうしている。

美味しい珈琲を作る第一歩は、まず美味しい生豆を入手することから始まると思う。そして僕は手をかけて磨き上げられた生豆を、精一杯丁寧に燒くことに専心しようと思う。


2012年10月8日月曜日

珈琲豆売り場のマイナーチェンジ

カフェジリオの主力商品はなんといっても昭和の初めから洋菓子の普及に大きな役割を果たして数年前に惜しまれながら閉店した老舗「ヒサモト」の流れを唯一正統に引き継いでいるケーキだと思う。
時折東京からも往時のファンがいらっしゃることがある。

この店を開くときに、飲料を担当することにした私は、だからそのケーキをもっとも引き立てるコーヒーを作ろうと、一年にわたって都合三人のお師匠さんについて修行をし、その後自分の釜を入手して焙煎を研究した。

最後のお師匠さんはコーヒーのお店はお客さんがつくのに三年はかかるからあせらずに頑張んなさい、とおっしゃっておられたが、スロースターターの私のこと、六年目の今になってやっと固定のお客さんで回るようになってきたような気がする。

コーヒーに関しての見解をようやく重い腰をあげて文章にまとめた「おいしいコーヒーのいれ方」という連載企画もいったん終えることが出来たので、それに応じてお店の方のディスプレイもこの数日かけてマイナーチェンジを行った。


まずはコーヒー豆のサインに、「鮮度」の重要性を掲げた。サインにも書いてあるが、「本日焙煎」と「飲みごろ(焙煎二日目)のタグを珈琲豆に付けることにした。


好みの味に加えて、鮮度を基準に持ち込むことで今まで飲まなかったようなコーヒーに巡りあう契機になればいいな、と思っている。

器具に関しては、あまり積極的には販売してこなかったが、少し全体のレイアウトを見直してスペースを拡張して、さらにコーノ式の利点についても掲示することにした。



ブログ記事も参考にしていただいて、ご家庭でおいしいコーヒーを飲んでいただけるといいなと思う。


2012年10月4日木曜日

おいしいコーヒーのいれ方 part-7 最終回・サイフォンとフレンチプレス

 僕が最初に本格的に師事したお師匠さんは珈琲サイフォン株式会社の社長なわけだから、当然サイフォンの手ほどきを受けている。
これが本家コーノのサイフォンだ。


この会社の製品は、漢の珈琲って感じでいちいちかっこいいのである。それに、コーノではすでにろ過にネルを使っていない。サイフォン用のペーパーを開発して使い捨てとしたのだ。ただでさえ、面倒なサイフォンの儀式のひとつが大幅に簡略されているわけで、この一点だけでも、現在他社のサイフォンをお使いの方は乗り換えを検討する価値があると思う。例によってペーパーを入手しにくいという欠点はあるのだが。

さてサイフォンで使う豆の挽目についてだが、少し細めという話をよく聞くが、本家コーノではそんなことはまったく言っていない。ドリップと同じ中挽きを使っている。サイフォンは浸漬法であり、湯の浸透力を使って抽出する。細挽きにするのはエスプレッソのような外部から圧力をかけて抽出する場合に使う方法だ。エスプレッソでは内部で9気圧もの圧力をかけて短時間で強く抽出するため細孔内の800種類の化学物質を露出させておくぐらいの細かさにしておく必要があるからなのだ。

粉の量もドリップと同じ一人分12g。ドリップと違って一人分で入れても四人分で入れても味は変わらない。そして、ドリップの時いい忘れたことだが、ドリップもサイフォンも2人分は24gでいいのだが、人数が増えて例えば4人分になったら40gで充分入る。そしてサイフォンではきっちり40gにしたほうがいい。サイフォンはいろんな場面で厳密さが要求される入れ方なのだ。

後は加熱器に点火する前にかならずフラスコの下部に水がついていないようにどんな場合も一回かならず乾いた布で拭いて欲しい。一滴でも水滴がついた状態で点火するとかなり高い確率でフラスコが割れる。そうなると結構な惨事になるのでご注意いただきたい。

サイフォンには構造的に大きな欠陥があって、それは短時間ではあっても珈琲豆を100度のお湯で煮沸する、ということである。煮沸させすぎれば灰汁まみれの珈琲になってしまう。だから、この煮沸の時間を厳密に守る必要があるのである。
そしてその時間は、二人分で50秒。四人用以上で40秒。
しかしこの中には粉をかき混ぜる時間が入っているため、実際の運用ではお湯が上がってきてポコッと表面が割れたら素早く竹べらでかき混ぜて(その時ぐるぐる回してはいけない。縦に切り込むように混ぜるのだ)そこから二人分40秒、四人分30秒と測るのがやりやすいと思う。

サイフォンの良い所は数値を守って入れれば必ず同じ味に仕上がることだ。ドリップは湯の入れ加減で毎回味が変わる。そこが面白いと僕などは思うのだが。


次に、フレンチプレスについて。

これがたぶん世界で最も多く使われているボダムのフレンチプレス。「紅茶に使うやつですね。珈琲も入れられるんですか」と言われることがよくあるが、これは珈琲のために作られた器具で、もちろん紅茶もいれられないこともないが、対流が起きにくい構造になっているからできるだけ使わないほうがいいだろう。

まず、粉は荒挽き。
金属製のメッシュでフィルタリングするので、詰まらないようにしたいのだ。

この器具についているスクープは7g。ドリップやサイフォンのように杯数が増えた時に粉の量を減らす必要はないと思う。ドリップと同じように90度くらいの湯を入れる。
湯を入れたら竹べらでかき混ぜる。(のに、なぜかこの器具にはかき混ぜる道具がついていない。不思議だ。)サイフォンのようにぐるぐる回さずに縦に切り込むように混ぜて欲しい。
さて、この器具も浸漬法なので時間が重要だ。
4分から4分半かかる。これ、けっこう長い。何故かというと荒挽きにしているから。時間をかけないと抽出できないのだ。珈琲は湯に漬けてから1分半くらいで急速に灰汁を生成する。私がこの抽出法を推奨しない理由がここにある。
プレスを愛好する人の主な理由は金属製のメッシュが、ドリップでは紙に吸われてしまう脂分をきちんとカップに出してくれる、というものだが、そのメッシュが荒挽きを要求し、長時間の浸漬を強いて、余計な成分を生成しているのである。
もうひとつ、これはサイフォンにも共通するのだが、飲んだ後の器具の掃除が大変さだ。抽出後、ガラス容器にべったりはりついた粉を流しに捨てるのも手間だし、当然油脂分をたっぷり流したそのあとの排水口の掃除はちょっと想像したくない。
もちろん、どの方法も一長一短あり、どちらを選ぶかは味次第ではあるし、現在使っている器具を使い込むことで上手に入れられるようになるというのも大事なことだと思う。

さてここまで7回にわたって、珈琲の入れ方について書き連ねてきた。最後までお付き合いいただいた皆さん、本当にありがとうございました。
ここで一旦シリーズを閉じて、また機会を見て、珈琲の歴史や薀蓄系小話などを書いていきたい。
それぞれのご家庭に美味しい珈琲の香りが満ち、幸せな時間を彩ってくれることを心からお祈りします。

-end-