自分自身は相撲という競技を生で見たことがないので、何かを述べる資格はないと思う。
しかし、巷間言われる「近代化」という言葉には違和感がある。
相撲という競技は、総当りでも、トーナメントでもない。
あの15日間の取り組みは、徐々に盛り上がっていくように、編成会議で決められる。
その一番一番の戦いそのものの興行性が相撲という競技の本質だ。
その意味で、ここ数年で連続的に噴出した相撲不祥事の中で、今回の八百長騒動だけは本当にタチが悪いと思う。 相撲という競技の本質を損なう嘆かわしい行為だ。
改革が必要なのだろう。
そして、それは内部の人たちが一番感じている。
貴乃花親方が、協会の慣例に反旗を翻して理事選に出馬した、いわゆる「貴の乱」がその嚆矢だったのだろう。
しかしこの改革の風は、隠れていた腐敗をまたひとつ暴くことになってしまった。
一部の若手力士たちが、禁を破って貴乃花親方を支持し、それを制裁するために身内から暴露されたのが「野球賭博」問題だったのだ。
自らの腐敗体質を以て、改革の火の手を封じようというのだから、その腐敗体質は深刻なものだと言わざるを得ない。
そして、これをきっかけに司直の手が入り、きっかけになった八百長問題にも逃げられない証拠が出てきてしまったのだから、場所の中止もやむなき事態かとは思う。
待ったなしとなった改革のために、近代スポーツの枠組みに嵌まった相撲を想像してみて、そういえば、この独特な競技がどんなふうに成立してきたのかと、ふと相撲の歴史に興味が湧いた。
新潮社の「考える人」という月刊誌のメルマガで紹介されていた宮本徳蔵さんという作家の「力士漂泊」という本がおもしろそうだったので、品薄で時間がかかったが取り寄せて読んでみた。
宮本 徳蔵
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鋭く研ぎすまされた名文だけで綴られた相撲の歴史は、モンゴルで生まれた「格闘という神事」が「異国趣味」という衣を纏って日本の各地に広まった様子をイキイキと伝えていた。
徳川幕府が年貢米という税制に行き詰まって困窮した時に、庶民を勇気づけたのも興行化された相撲であった。
明治時代、列強の仲間入りを目指した日本は、ナショナルスポーツの制定に迫られ、常設のスポーツ興行として国技館(設置当時は「常設館」という名前だった)の設置に至った。
法令化はしていないが、事実上の「国技」ということだろう。
「力士漂泊」の筆者は言う。
こうまで人びとの意識の深層に根ざした文化的なシステムである以上、近代化を焦るあまり、本質的な部分にちょっと変改を加えただけでも、あっという間に全体が崩壊してしまうだろう。
昭和60年に書かれた本だが、なんとも予言的だ。 きっとそうなのだろう。
その本質部分に腐敗が及んだのだ。
<近代化>ではなく、<回帰>。
それが求められているのではないかと思う。