2013年8月25日日曜日

図書室「未完成」: 浅田次郎「終わらざる夏」

図書室「未完成」: 浅田次郎「終わらざる夏」: 高校を卒業するまでを釧路で過ごした。 だから北方領土のことは他人事ではなかった。 大恩ある先生から、ラーゲリに収容された経験をお聞きしたこともある。 尊厳を奪われるということが、どんなに怖ろしいことか想像しただけで身が震えた。 だから、浅田次郎さんの「終わらざる夏」は...

2013年8月21日水曜日

カップの取っ手は右か左か

大学生の頃、ススキノの深夜喫茶でバイトしていた。
珈琲のご注文だけは、常時たくさん作ってある珈琲を自分でカップに注いてサーブするスタイルだった。

カップの取っ手は左向きに置く、と習った。
何故か、は聞かなかったし、別に疑問にも思わなかった。


自分で店を始める時、珈琲は焙煎の修行もしたし、淹れ方はKONO式の総本山、珈琲サイフォン社で社長に一から習った。じゃやっぱり美味しい紅茶も入れたいじゃん、と思い、日本紅茶協会のインストラクター資格のための講習会を受けに二週間通った。

その授業の中にカップの置き方の項があり、取っ手を何故左に置かなかればならないかの説明があった。
それはなんと、砂糖とミルクを入れてスプーンでかき混ぜる際、スプーンは(利き手の)右手で持ち、左手で取っ手を支えるという作法があるからなのだそうだ。
なんと、というのは、自分ではスプーンでかき混ぜるときにカップを支えたことがないからだ。

また、飲むときにズルズル音を立ててるのもお作法に適わないので、彼の地では何も入れなくても温度を下げるためにかき混ぜる人が多いのだ。
だからカップの取っ手は基本的に左側。
さすが英国。
日本でもきっと上流の方々は取っ手を支えてスプーンをかき混ぜるのだろう。


さらにかき混ぜ終わった後、スプーンをソーサーの奥に置き、左手でソーサーを持ち上げて、右手で取っ手を持ちくるりと180度カップを廻して飲むのだそうだ。
うーん、そういえば映画なんかでソーサーを持ち上げて飲んでるの見たことあるなあ、などと感心しながら聞いていた。

そういうわけで映画を観る時、カップがどんなふうにサーブされるか注意して観るようになったが、ハリウッド映画では基本的に取っ手は右側で、ガチャンと置かれたカップ&ソーサーからおもむろに取っ手を持ち何も入れずに飲むようなシーンが多い。
まあこちらが実用的というものだ。


作法は重要だが、すでに真意は見失われ、取っ手が左にあろうと右にあろうと取っ手を支えてスプーンをかき回す人はいないし、温度が低くなった後でもズルズル飲む人はズルズル飲む。

というわけで当店では、取っ手右側の「アメリカ式」を採用している。
無作法の段、ご容赦いただきたい。

2013年8月19日月曜日

Girasole Records Blog: 崇高さと愚かしさのブルース - 佐野元春「Zooey」

Girasole Records Blog: 崇高さと愚かしさのブルース - 佐野元春「Zooey」: 2013年3月13日、自身の誕生日に発売された佐野元春のアルバム「Zooey」を折りにふれ聴き続けてきた。 五ヶ月の間に、少しづつ言葉が耳に残り、ようやくこのアルバムに託した元春の願いのようなものが聴こえてきたような気がした。 前作「Coyote」で急速に喪われた佐...

2013年8月17日土曜日

図書室「未完成」: コニー・ウィリス「エミリーの総て」 - 愚かしさの選択についての物語

図書室「未完成」: コニー・ウィリス「エミリーの総て」 - 愚かしさの選択についての物語: SFマガジンでコニー・ウィリスの特集を組んだのは知っていた。 しかし文芸雑誌には、連載小説があったりするものだから、毎号買わないと十全に楽しめない気がして購入をためらっていた。 そうしていると、コニー・ウィリスを僕に教えてくれた友人が、どうせ棄てるものだから、とその特集が載...

2013年8月15日木曜日

有機農法の珈琲は美味しいか

珈琲の自家焙煎店をやっていると、「有機栽培のコーヒーしか飲みません」というお客さんにお会いすることがある。
そこまで極端でなくても、たまたま仕入れた有機のマンデリンを販売していた頃には、やはり有機であるというだけで通常の栽培法よりも高品質であると感じるお客さんが多いようだった。


確かに高価格ではある。

工場で簡単に(製造や精製ではなく)固定できる窒素を、豆類を栽培して土に鋤きこむことで補充したり、化学的に合成できるリンやカリウムを、わざわざ魚を捕ってきて抽出したりするのだから、当然コストが嵩む。

害虫や病気に対しても化学物質を使わないため人手がかかったり、他の生物の力を借りたりするが、やはり生産能率は低い。

それだけではなく、「有機栽培」であるという認定をもらうのに、各種団体にいろいろな名目の料金を払わなくてはならない。

嵩んだコストは当然、料金に反映され、有機の豆は全般に少し高めだと思う。
もちろん中には、そのコストに見合う美味しい豆もある。
しかしそうでないものもある。

あくまでも味で豆を吟味して今年で7年目になるが、現在のラインナップには有機の豆はひとつも入っていない。
こと珈琲に関しては「有機だから」美味しいということはないようだ。

さらにここまで読んでお気づきになった方も多いと思うが、通常の農業の何倍も環境にかける負担が大きい農法でもある。
ある試算では、地球上のすべての農法を有機農法に切り替えると、ほどなく地球のすべての水産資源と森林資源を使い尽くしてしまうそうだ。

化学的なプロセスを使って固定した空気中の窒素を畑に鋤き込むのを拒否して、トロール網で捕らえた魚を砕いて鋤き込むのはいいとする有機農法の考え方にもある種の欺瞞を感じる。
物事にはいろんな側面がある。


夏になると、ケーキのメニューにベリー類を使ったタルトをお出しする。
このベリーには、余市の稲船ファームというところでお作りになっている有機農法のものを使っている。
ケーキにベリーを使うということは「甘い」食材と組み合わせて使うのが前提なので、ワイルドで強い風味を持つ有機農法のベリーがいい。
ちょっと稲船ファームの写真を見て欲しい。


もう、自然そのものでしょう。
虫のことや収穫などには大変なご苦労をされて、それでも自然に近い環境の中で厳しく育ったベリーの身(実)の裡にしか宿らない強い風味は本当に貴重だと思う。
ここに有機農法の必然性があると思った。

しかし、カシスやイチゴの強い風味と組み合わせてまろやかさを演出するブルーベリーだけは、この作り方では強すぎる。
で、小林ファームという別の農園にお願いしている。
こちらが小林ファーム。


ずいぶん違いますね。
このクリーンで都会的なブルーベリーが、見事な味のまとめ役を担ってくれるのだ。

繰り返すが、物事にはいろんな側面がある。
札幌のケーキ店を廻っていろんなケーキを食べた、という食通のお客様は、我々のケーキのひとつひとつに詳しい説明を求め、「でそのイチゴは甘いの?」とお聞きになった。
ショートケーキのイチゴが甘かったら台無しだろう。
答えに窮したが、酸味の強いイチゴを使っています、としか答えられなかった。


作っている側は、経験によってしか得られない知見でできるだけ良い商品を提供しようと努力している。
それが「有機」だから、「有機」でないから、の一言で片付けられた時の脱力感といったらないし、常に甘いイチゴが優れているとは限らない。


食品の世界では、消費者がより安全で美味しい食品を求めているが、そのための情報も一面的に見ては理解できない。

有機ビールと銘打ったビールのほとんどはゴールデン・プロミスというオオムギを使って醸造されているが、これはイギリスで大量の放射線を浴びせて作られた変異種である。
有機農法、という言葉から感じられる「自然志向」とは本質的なところで逆向きの食品であるように僕には感じられる。

今時のほとんどのスパゲティには「100%デュラム・セモリナ」という表示があって、ある種の品質保証のように機能しているが、このデュラム・コムギも、放射線照射によって作られた変異種だ。

そんなことを言うと、現在我々がコムギと呼んでいる植物自体が、三種類のイネ科植物に由来する三つの二倍体ゲノムを持つ変異種で、人間の手助けがなければ子どもを作ることすらできなくなってしまった生物だ。
現在入手できるほぼすべての農作物が、人間の手によって、長い時間をかけて何らかの改変を加えられている。
そして、もしその技術をすべて手放して、自然のままに生きようとすれば、あっという間に地球が「破産」する。我々すべてを養うには、この地球という惑星にすでに人間は多すぎるのである。

こんな時代、せめて自分の味覚を信じて食べ物と接するしかないと僕は思う。

2013年8月1日木曜日

不景気ってなんだろう

どちらかというと、モノを捨てすぎて後悔するタイプだと思う。

今でも痛恨だと思っている断捨離は、せっせと買い溜めた映画やロックの「レーザーディスク」だ。
「セントエルモの火」や「スタンド・バイ・ミー」、「私をスキーに連れてって」など、テープと違って劣化しないから、何度も何度もお気に入りのシーンを観たせいで体の中に染み込んでいる映画たちがある。
スプリングスティーンや佐野元春のライブに興奮し、岡村靖幸の音楽は、まさに彼の肉体から生まれ出てくるのだなあと、彼のダンスシーンを見て確信したり。

確かにDVDやブルーレイで買い直せないコンテンツは滅多にないだろうし、画質、扱いやすさなど、どこをとってもDVDやブルーレイなどと較べていいところは無いのだが、あのモノとしても圧倒的な存在感や、愛情たっぷりに企画されたに違いないジャケットデザインなど、レーザーディスクというメディアは「所有するヨロコビ」に満ちている。


そこんとこは自分でもわかっていて、アナログレコードは今でもCDよりずっとよく聴いている。
LPは愛着を持ったままで、LDは捨ててしまったその理由はLDの再生機に愛着を持てるよい機械を選ばなかったことにある。

金がない若い頃に買った僕のレーザーディスクプレーヤーはパイオニアのCLD-110というCDとのコンパチ機で、安価で素晴らしい映像体験を与えてくれたことには感謝している。
だからこそ私は、レーザーディスクのハードとソフトを二束三文で売り払うのはなくて、あの時むしろ最後の投資として高級機を買うべきだったのだ。


そして世は直径12cmの光学ディスクにデジタル信号を刻んだパッケージが標準となり、ユーザーも面倒な手間なく手軽に映画や音楽を楽しめるようになった。
供給側は、まるで印刷をするような軽やかさで大量生産ができ、コンパクトになった分だけ流通費用もセーブできた。

コンピュータの機能が拡張していき、これらのデジタル信号を扱えるようになると、それらは容易にコピーされ、ネットワークの進展に合わせて著作権者の目を盗んで、何処にでも飛んでいくようになった。

今まで経済的な理由で、そうしたすぐれた芸術に触れる機会を持ちにくかった若者たちも、より多くの感動を得られるようになった。


しかしその現状を音楽や映画を「盗まれている」と解釈した人たちは、CCCD(Copy-Controlled Compact Disc)なる珍妙な規格まで作り出し、低音質の商品を流通させたし、映画でもARccOSのようなディスクの挙動が不安定になるコピーガードを搭載しては古いプレーヤとの間に不具合を起こしている。

CDやDVDの寿命も、当初喧伝されていたような長寿命ではなかったし、ソフト側に仕込まれた規格外の仕掛けのおかげでプレーヤーの寿命まで短くなった。

テレビの走査線の数は増えていき、その度に放送のクオリティが変わり、機器の買い替えを迫られる。

デジタル機器にはICチップが仕込まれ、事業者からのメッセージを否応なく受信する。
今までのように、「俺は受信料は払わねえよ」などと気取ってはいられない。

自宅で録画した番組はコピーする回数を決められ、一定以上の回数コピーすることはできないし、番組によってはコピーすると本体のデータが削除されるようになっているものもあると聞く。


何も便利さが悪いと言っているのではない。
が、CDにしてもDVD/Blu-rayにしても、あのような軽佻浮薄なパッケージが標準仕様である以上、そこに愛情を感じることは難しいのではないか。
どうせすぐに買い替える、と思って買うデジタル機器にもだ。

そういう扱いを受ける製品に愛情をこめて作るメーカーもないだろう。
若者が車を欲しがらない時代に、工場から出荷される、規格に添って生産された芸術作品を売ろうとして売れるような気は全然しない。残念ながら。


そうしてモノに縛られない風潮は加速していく。


結局のところ、我々が不景気と呼んでいるものの正体って、経済学者が難しい言葉で語るあれやこれやのロジックではなくて、我々自身の貧しくなった精神のことなんじゃないだろうか。