2013年7月30日火曜日
Girasole Records Blog: アナログレコードと、芸術の死と再生
Girasole Records Blog: アナログレコードと、芸術の死と再生: 未だに、一番よく使う音楽メディアはアナログレコードである。 それは単純な話、音楽に夢中になった少年時代、音楽メディアの主力はアナログレコードだったから、なけなしのカネでレコードのコレクションを揃えたし、だから強い愛着があって、今でも所有しているからに他ならない。 時代が変...
2013年7月14日日曜日
個人事業主、選挙に向き合い、そして思う
来週は参院選の投票に行く。
機会があって夏目漱石を紐解いたり、幕末あたりの顛末を調べたりして、今の日本の成り立ちを知れば知るほど、どうしていいのかわからなくなる。
学者さんの言う、難しそうに聞こえる「説」は、今までのいろんな事についてそうだったように、それがどんなに正しそうに思えても、多くの場合は結果そのようにならない。
で、後からこれまた正しいとしか思えない別の説によって説明される。
そういうものだ。
だから結局のところ選挙というのは、この予想どおりにならない成り行きの責任を国民の全員で分配するシステムなんじゃないか、と思う。
なるようにしかならない、ということだ。
でも、こうなって欲しい、ということならわかる。
自分は世間知らずの大学生のまま、平成元年というバブル絶頂期手前の幸せな時代に、たいして苦労もせずに就職した。
そして「子供」のまま社会で働き始めた。
仕事は山ほどあった。
若造の私にも大きな仕事がいくつも回って来て、直接的な仕事の技術はもちろん、社会のことや人間のことについても急速に学んだ。
バブルが終わり、市況が厳しくなっていくと、その学んだ技量だけでは成果が上がらなくなってきた。
チームでより多くの情報を集めたり、得意分野を補い合ったりすることが必要になったし、それはそれ自体がとても楽しい経験だった。
仕事自体を楽しむようになると、それなりの地位に就くようになる。
そうなってみて会社というものも誰かの意思で動いているのだと知るようになる。
現場で忙しく立ち回っている時は、マーケットと対峙するのが事業のすべてだと思い込んでいる訳だが、考えてみれば会社というのは誰かが立てた旗の下に集まった集団のことだから、はじめに意思ありきなのは当たり前の話だ。
だからそこには、必然的に意思の相克が発生する。
そして下手をすると顧客に相対する以上のエネルギーを社内の調整に充てることになる。
むろんある程度の規模をもった企業にしか提供できないサービスはあるし、そうした組織ではこの種のエネルギーは必ず必要なものだ。
しかし私自身は会社での経験を通じて、そうした意思の相克を必要としない、極めて「個人的な」事業のありように惹かれていった。
逆に言うと個人的な事業は、他者の意思との相克によって磨くことが出来ない分、維持していくのが極めて難しい事業形態だと思う。
結果、会社を辞めて家族経営のカフェを開くというチャレンジは丸7年になろうとしているが、現時点では幸運の助けもあって満足のいく成り行きになっている。
今後もこのスタイルでがんばっていきたいと思っている。
正直なところ収入は比較にならないほど少なくなったが、はるかに日々の充実感は高い。
余計なお世話かもしれないが、こういう充実感もいいもんだよと世界中に伝えたい気分だ。
だから、地域に根ざした心あるスモール・ビジネスを壊してしまうような国になってほしくない。
この仕事を通じて知り合った余市の農家さんたちは、皆家族で実に個性的で魅力的なスモール・ビジネスを展開している。
自分で育てた野菜だけを食べさせて太陽の下で育てた鶏の卵のあの自然な味。
その鶏の糞(まったく臭くない!)を肥料に育てている、大きさこそ不揃いだが、実に野趣溢れるベリー。
ビジネス的野心ではなく、鶏糞が繋ぐ農家のネットワークが、私たちのケーキの味を支えている。
失いたくない。
かなり前から牛乳の国内需要は減る一方で、日本の畜産農家はバター用の牛乳が採算に合わなくなり、現在は主にオーストラリアからの輸入に頼っているのが現状だ。
しかしそのために、近年の世界的な天候不順で牛乳の輸入が侭ならなくなると、あっという間に国内のバター流通が枯渇するのを何度も見て来た。
経済的効率性が最優先されるこの国で、現在では、美味しいクッキーを作るのに必要な発酵バターを作っているメーカーはほとんどない。
残念ながら、乳製品に関してはもしかしたら手遅れなのかもしれない。
僕たちはすでに、かつて人気のあったいくつかの商品を、今では作れなくなってしまっている。
バターがなければマーガリン、というようなわけにはいかないのだ。
我々の「豊かさ」とはGDPとやらの多寡で本当に計れるのだろうか。
そしてそれはお札をたくさん刷ることによって実現すべきものなのだろうか。
今回の選挙ははじめてのネット選挙だそうなので、せっかくだからこちらの気持ちもネットの方に載せておくべきではないかと思い、書いた。
そしてこのような想いは、どのようにしても「一票」に載せ切ってしまうことはできないだろう。
つまりそういうことなのではないか。
結局「生」は個人のものだ。
真剣に生きる個人が積み重ねていく日々の全てで、国家も社会も経済も出来ているんだと思う。
機会があって夏目漱石を紐解いたり、幕末あたりの顛末を調べたりして、今の日本の成り立ちを知れば知るほど、どうしていいのかわからなくなる。
学者さんの言う、難しそうに聞こえる「説」は、今までのいろんな事についてそうだったように、それがどんなに正しそうに思えても、多くの場合は結果そのようにならない。
で、後からこれまた正しいとしか思えない別の説によって説明される。
そういうものだ。
だから結局のところ選挙というのは、この予想どおりにならない成り行きの責任を国民の全員で分配するシステムなんじゃないか、と思う。
なるようにしかならない、ということだ。
でも、こうなって欲しい、ということならわかる。
自分は世間知らずの大学生のまま、平成元年というバブル絶頂期手前の幸せな時代に、たいして苦労もせずに就職した。
そして「子供」のまま社会で働き始めた。
仕事は山ほどあった。
若造の私にも大きな仕事がいくつも回って来て、直接的な仕事の技術はもちろん、社会のことや人間のことについても急速に学んだ。
バブルが終わり、市況が厳しくなっていくと、その学んだ技量だけでは成果が上がらなくなってきた。
チームでより多くの情報を集めたり、得意分野を補い合ったりすることが必要になったし、それはそれ自体がとても楽しい経験だった。
仕事自体を楽しむようになると、それなりの地位に就くようになる。
そうなってみて会社というものも誰かの意思で動いているのだと知るようになる。
現場で忙しく立ち回っている時は、マーケットと対峙するのが事業のすべてだと思い込んでいる訳だが、考えてみれば会社というのは誰かが立てた旗の下に集まった集団のことだから、はじめに意思ありきなのは当たり前の話だ。
だからそこには、必然的に意思の相克が発生する。
そして下手をすると顧客に相対する以上のエネルギーを社内の調整に充てることになる。
むろんある程度の規模をもった企業にしか提供できないサービスはあるし、そうした組織ではこの種のエネルギーは必ず必要なものだ。
しかし私自身は会社での経験を通じて、そうした意思の相克を必要としない、極めて「個人的な」事業のありように惹かれていった。
逆に言うと個人的な事業は、他者の意思との相克によって磨くことが出来ない分、維持していくのが極めて難しい事業形態だと思う。
結果、会社を辞めて家族経営のカフェを開くというチャレンジは丸7年になろうとしているが、現時点では幸運の助けもあって満足のいく成り行きになっている。
今後もこのスタイルでがんばっていきたいと思っている。
正直なところ収入は比較にならないほど少なくなったが、はるかに日々の充実感は高い。
余計なお世話かもしれないが、こういう充実感もいいもんだよと世界中に伝えたい気分だ。
だから、地域に根ざした心あるスモール・ビジネスを壊してしまうような国になってほしくない。
この仕事を通じて知り合った余市の農家さんたちは、皆家族で実に個性的で魅力的なスモール・ビジネスを展開している。
自分で育てた野菜だけを食べさせて太陽の下で育てた鶏の卵のあの自然な味。
その鶏の糞(まったく臭くない!)を肥料に育てている、大きさこそ不揃いだが、実に野趣溢れるベリー。
ビジネス的野心ではなく、鶏糞が繋ぐ農家のネットワークが、私たちのケーキの味を支えている。
失いたくない。
かなり前から牛乳の国内需要は減る一方で、日本の畜産農家はバター用の牛乳が採算に合わなくなり、現在は主にオーストラリアからの輸入に頼っているのが現状だ。
しかしそのために、近年の世界的な天候不順で牛乳の輸入が侭ならなくなると、あっという間に国内のバター流通が枯渇するのを何度も見て来た。
経済的効率性が最優先されるこの国で、現在では、美味しいクッキーを作るのに必要な発酵バターを作っているメーカーはほとんどない。
残念ながら、乳製品に関してはもしかしたら手遅れなのかもしれない。
僕たちはすでに、かつて人気のあったいくつかの商品を、今では作れなくなってしまっている。
バターがなければマーガリン、というようなわけにはいかないのだ。
我々の「豊かさ」とはGDPとやらの多寡で本当に計れるのだろうか。
そしてそれはお札をたくさん刷ることによって実現すべきものなのだろうか。
今回の選挙ははじめてのネット選挙だそうなので、せっかくだからこちらの気持ちもネットの方に載せておくべきではないかと思い、書いた。
そしてこのような想いは、どのようにしても「一票」に載せ切ってしまうことはできないだろう。
つまりそういうことなのではないか。
結局「生」は個人のものだ。
真剣に生きる個人が積み重ねていく日々の全てで、国家も社会も経済も出来ているんだと思う。
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