20年ほど前の話になる。
その冬、家内はパティシエ修行で、3ヶ月間ドイツに行っていた。
彼女が働いていたヒサモトという老舗菓子店と縁のあるお店で住み込みの従業員として働くのだ。
僕はその修業が終わる日に合わせて、会社に少し長めのお休みを申請してドイツに向かった。
ちょうどクリスマスの直前だった。
到着したその日、雪の降りしきるフランクフルトのクリスマスマーケットを、グリューワインで体を暖めながら見て回った。
どの屋台でも同じような木工細工、同じようなマグカップを売っていて、並んでいるソーセージもさして違いがあるようには見えなかったが、みな、思い思いの屋台でそれらを買い求めていて、それがとても楽しそうだった。
誰かと違うことではなく、ただ平凡であることが幸福の条件なんだと、その光景が語っていた。
世界に冠たる金融都市で工業都市のフランクフルト・アム・マイン (Frankfurt am Main)がクリスマスの夜に見せるそのもうひとつの顔。
僕らはその敬虔さに少し感動していた。
翌日、霙(みぞれ)混じりのイタリアに入った。
イタリアでも指折りの古都ジェノヴァを目的地にしたのは、当時カズが在籍していたセリエAジェノアがある街だったからかもしれない。
でもその少し前に行われた国際博覧会の際に建築家レンゾ・ピアノが再開発してしまった旧市街はどこかよそよそしい感じで、メインストリートを外れて古い町並みが残っていそうな住宅街の方に登っていった。
そこで小さなリストランテを見つけた。
その日は25日で、道を歩いている人もまばらで、開いている店もほとんどなかった。
入ってみると、お客さんは僕らの他に一組だけ。観光客が来るような場所ではないらしく、メニューも簡単なものしかないがいいかと聞かれたが、それでいいと答えた。
しかしそこで食べた、見た目に何の変哲もないフォカッチャのうまさときたら!
中世に栄華を極め、衰退の一途をたどった古都の人々が伝え残した、経済とは関係ない場所にある豊かさの片鱗を感じた瞬間だった。
ヨーロッパのクリスマスに学んだいくつかのことが、今僕らがやっているこの店に確かに影響を与えている。
もちろんそれを目指して札幌に移住して開業したに違いないのだが、クリスマスが来て、雪の中お客様がケーキを受け取りに来られるのをお迎えする度に、心だけがふとあの日の霙降るジェノヴァに飛んで、二つの時に同時に存在しているような不思議な気分になる。
そして同時に、彼の地の人々のような文化の担い手になれているだろうかと自問して、今年やってしまったあれやこれやの身勝手な行いを恥じるのだ。
メリークリスマス。
2014年12月24日水曜日
2014年12月14日日曜日
競馬と選挙
今日は衆院選。 朝一番で投票を済ませてきました。
一票の格差が大きく違憲状態と指摘されている現状を改善せぬまま、それでも次の選挙が行えてしまうこの国の舵取りを誰に委ねるのか。
自分なりに政治的良心と私欲の関係について考え抜いて投票先を決めたつもりです。
一票の格差が大きく違憲状態と指摘されている現状を改善せぬまま、それでも次の選挙が行えてしまうこの国の舵取りを誰に委ねるのか。
自分なりに政治的良心と私欲の関係について考え抜いて投票先を決めたつもりです。
まだ二十代の頃、何度か競馬場に行きました。
競馬では予想の精度を楽しむところがあり、結果いつもカタい馬に賭ける傾向になりやすく、それなりに小さな的中がいくつかあって、配当はさておいて競馬というスポーツ観戦を楽しんでいました。
最後に競馬場に行ったのが、平成三年の有馬記念。
家内と家内の姉と一緒に行ったのですが、なんと義姉は大穴のダイユウサクを的中。
身近な人が万馬券を的中させるのをはじめて見て、僕はその日を最後に競馬をやめました。
理知を出し抜いて当たる確率が低い馬券に高い報酬が払われるという仕組みの裏側では、もちろん出し抜かれた側が搾取されているわけで、それじゃまるで世の中そのものじゃないかと思い当たり、急に現実を写し絵にしたスポーツなんてつまらないと醒めてしまったのです。
選挙の方では、結局今まで一度も勝ち馬に投票したことがありません。
しかしこっちは別に残念ではない。
むしろ世界が多様であることの証明として僕の一票が機能していると、いつもそう感じています。
きっと今回もそうでしょう。
願わくば、選挙に勝った勢力に属する皆さんも、この多様な世界で完全な信任などないという事実を謙虚に受け止めてくれることを期待しています。
競馬では予想の精度を楽しむところがあり、結果いつもカタい馬に賭ける傾向になりやすく、それなりに小さな的中がいくつかあって、配当はさておいて競馬というスポーツ観戦を楽しんでいました。
最後に競馬場に行ったのが、平成三年の有馬記念。
家内と家内の姉と一緒に行ったのですが、なんと義姉は大穴のダイユウサクを的中。
身近な人が万馬券を的中させるのをはじめて見て、僕はその日を最後に競馬をやめました。
理知を出し抜いて当たる確率が低い馬券に高い報酬が払われるという仕組みの裏側では、もちろん出し抜かれた側が搾取されているわけで、それじゃまるで世の中そのものじゃないかと思い当たり、急に現実を写し絵にしたスポーツなんてつまらないと醒めてしまったのです。
選挙の方では、結局今まで一度も勝ち馬に投票したことがありません。
しかしこっちは別に残念ではない。
むしろ世界が多様であることの証明として僕の一票が機能していると、いつもそう感じています。
きっと今回もそうでしょう。
願わくば、選挙に勝った勢力に属する皆さんも、この多様な世界で完全な信任などないという事実を謙虚に受け止めてくれることを期待しています。
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