会社員時代には、休日になるとよく買い物に出かけた。
家内はイタリアン・レストランに勤務していたから、美味しい店のことをよく知っていた。
本当に美味しいお店は雑誌なんかには載っていないものだ。
特に混雑もしていないそういうお店でたまに夕食をとった。
バンドもやっていたから、日曜の午前にはスタジオに入って、趣味で自作した曲を長い付き合いの仲間たちと演奏した。
年に一回は西荻窪や新高円寺のライブハウスでライブをやった。
後半、会社のバンド仲間と小川町でライブイベントをやったりしたけど、あれも楽しかったな。
何年かに一回、長期休暇がとれる制度があったので、そんな時はイタリアに旅行して古い街並みをあてどなく歩いた。
そういう休日の楽しみは、多忙なビジネスマンライフを乗り越えていくために必要な「充電」なんだと思っていた。
しかし、個人事業者となってカフェの運営をはじめると、すべてが変わった。
会社でやっていたあれは、仕事の「一部」だったんだと気がついた。
自分で仕入れたものを加工して、商品に名前を付けて、お客様にプレゼンする。
お客様に提供して「美味しい」と言われる。
心からの感謝を表明し、対価を受け取る。
頂戴した対価を管理し、生活と再投資に振り分ける。
それが絶え間なく続く。
絶え間なく続いているのは、忙しさではなく緊張だ。
こんなちっぽけな事業が、明日どうなるかなど誰にもわからない。
その不安がいつもバックグラウンドに流れている。
そして体を壊して休めば、その時点で事業が停まる。
健康を維持していくことも重要な責務となった。有給休暇なんてないのだ。
仕事をすることと生きていくことが同義の生活を送って、一週間が終わればもう何かをする体力や気力は残っていない。
ベッドで身動きもせずに体を休めながら、まるで今のオレは充電器に繋がれた携帯電話みたいだな、と思った。
はて、これが充電だとすると、会社員時代の、休日のほうがアクティブだったあの日々はいったいなんと呼べばいいのだろう。
バッテリーの寿命をのばすために時々行う「放電」のようなものだろうか。
休日に「本当の自分」に戻るのだから、という担保があってはじめて仕事の日々のための仮の人格(何々社の誰それ)を運用できていた、とそういうことなのかもしれない。
ということは本当の自分、というやつはいつも社会から隠されていたということになる。
確かに、その頃のお客様に髪をスプレーで逆立ててギターをかき鳴らしながら歌う姿をお見せしたいとは思わなかった。
「放電」している姿というのはビジネスと相性が悪い。
で、現在の僕にとってのビジネスの場であるカフェは、お客様にとっての「放電」の場であるのだろうと思う。
だからこちらもある程度放電モードで対処することになり、隠れ場所がなく本当の自分のままで矢面に立つその当然の帰結として週末に「充電」が必要になる、とそういう仕組になっているようだ。
今、村上春樹氏が期間限定で読者との交流サイトをやっているが、その中で「中古レコード店は僕にとってのサンクチュアリなので、見かけても声をかけないでね」と言っていた。
僕にとっては年に4~5回、土曜深夜に歌うカラオケがそれにあたるのかな。
今年は僕にとってのサンクチュアリと呼べる場所を、もう少し探してみようと思います。