2016年2月6日土曜日

カフェイン有害説の起源

今日の北海道新聞の朝刊コラム「各自各論」に、カフェインについての文章があった。
旦部幸博さんという滋賀医大の講師の方が書かれている。
今月「コーヒーの科学」という書籍を発刊予定という。


コラムでは、昨年末、国内で起きたカフェイン錠剤とエナジードリンクの併用によるカフェイン中毒死事故を取り上げ、カフェインの致死量とコーヒーの関係について記述している。

致死量があるのだから、やはりカフェインは毒物なのか、と感じるが、それはアルコールも同じで、過ぎれば毒になるものと我々は上手に共生してきたのである。
しかし酒の話ならば、飲み過ぎはダメよ、ということになるが、カフェインの場合には、存在自体が毒物というイメージがつきまとっているように思う。
その「カフェイン有害説」には根深い原因があるとコラムでは、書かれていた。
詳しく調べてみたので、こちらでもご紹介したい。

それは19世紀末のアメリカではじまった。

C.W.ポストという働き過ぎで神経症になった男がいた。
彼が治療を受けたのは、ケロッグ博士の療養所であった。
ケロッグ博士はシリアルと穀物から作ったカラメルコーヒーという代用飲料で健康な体が作れると主張して、あのケロッグを作った人だ。
いろいろと珍妙な健康法を作り出して、商業的には成功を収めたようだが、その珍妙さは後にブラック・コメディの映画が作られるほどだったという。

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C.W.ポストは、ケロッグ博士の療養所では治癒せず、「病を治すのは医療ではなく、祈りである」という教義の新宗教、クリスチャン・サイエンスに傾倒する。
にもかかわらず、恢復した彼は、ケロッグの療養所で知ったシリアルと代用コーヒー「ポスタム」の会社を興すのだ。

そしてそのポスタム売り込みのためのカフェイン攻撃ネガティブキャンペーンがはじまる。
このキャンペーンは、たまたまコーヒーの消費者価格の高騰と重なり、大成功。
ポストの事業は大成功を収める。

その後、C.W.ポストは「シリアルとポスタムで病気知らず!」「シリアルを食べれば虫垂炎にならない」というキャンペーンの文句を考えれば大変皮肉なことに、1914年に神経症を再発したうえ、虫垂炎を発症し手術を受けることになった。
同年、彼は入院中にピストル自殺してしまう。

その後、ポストの事業は娘が引き継ぎ、社名を「ゼネラルフーヅ」に変更された。
まもなく同社は、コーヒー焙煎会社マクスウェルハウス・コーヒー社を買収して、コーヒー事業に乗り出すことになる。
どういう経緯があったのかはわからない。しかしこれ以上皮肉な話があるだろうか。

さて、現代の巨大なコーヒー産業を「豆の流通」という視点で見た時、避けて通れないのが4つのコーヒー・メジャーの存在だ。
「ネスレ」「P&G」「クラフト」「サラ・リー」
この四社によって、コモディティの豆の流通の大部分が担われている。

この中のクラフトという会社は、日本でもチーズでよく知られているが、この会社のコーヒー部門の母体が「ゼネラルフーヅ」なのである。

日本では、クラフトチーズは森永の扱いだが、コーヒー部門のマクスウェルハウスは、1950年に設立された日本法人がその後、味の素と合併しAGFとなったので関係が見えにくいが、ブレンディやマキシムといったコーヒー・ブランドで生活の中に浸透している。

19世紀末のカフェイン・ネガティブキャンペーンが莫大な資金を生み出し、それが結果的にコーヒー四大メジャーの一角を作り出したということになる。
やはりコーヒーの歴史は、人の「欲」の歴史なのだなあと思う。

2016年2月1日月曜日

YKKがカフェをオープンした件で、日本におけるブラジルコーヒーの歴史を振り返る

ファスナーで有名なYKKが、東京墨田区にカフェをオープンしたそうだ。
カフェ・ボンフィーノといって、国技館近くのYKKのビルに隣接している。
使われているのは、ブラジルにある自社農園の豆。
店内に設置した大型焙煎機で自家焙煎している。

YKKは、1972年にファスナー事業でブラジルに進出し、そこで得た利益を再投資し、85年、セラードに3300万坪の大規模なコーヒー農園を開いた。
栽培されているのはカトゥアイ種だそうだ。
生産性が高く、病気に強いが、ロブスタとの混合種であるため風味には劣るように思うが、自家焙煎の鮮度がそれをカバーするだろう。


ブラジルコーヒーと日本の関係は昔から深く、明治41年に日本からブラジルへの最初の移民793名を載せた船「笠戸丸」が神戸から出港した時に始まる。

その笠戸丸出港から100周年を記念して発行された記念硬貨。

当時ブラジルは、奴隷解放によって農園の働き手を失い、国家的な主力産業であるコーヒー農園での労働力を求めていた。
しかし、賃金労働者と奴隷の区別がつかないブラジル園主と外国人労働者の間でドラブルが続出していた。

同じ頃、日本では人口増加による食糧不足、日露戦争帰還兵の失業者問題が深刻化していた。
その解決策として、日本人のブラジル移民を計画したのが皇国殖民株式会社社長、水野龍だった。
最初の移民事業が、前述の「笠戸丸」である。

日本人移民もまた、奴隷の扱いしか知らない農園主のもと、多くの困難と忍耐を強いられた。
大きな成果も上げられず移民事業は大きな赤字を抱えてしまう。

ブラジルのサンパウロ州政庁は、そんな水野の移民事業に対し、年間1,000俵の珈琲豆の無償供与と東洋の一手宣伝販売権を与え、日本におけるブラジルコーヒーの普及事業を委託した。
これがカフェ・パウリスタの始まりで、当時は南米ブラジル国サンパウロ州政府専属珈琲販売所と銘打っていた。 大隈重信もこの事業に協賛したという。

日本のカフェ文化は大きな拡がりを見せたが、戦争がすべてを壊してしまった。
戦後、GHQ経由で入ってきたコーヒー豆で、個人店が隆盛を見せたが、高度経済成長時代のライフスタイルに合わせてセルフ店が出てくる。
その先駆けがドトール・コーヒー。

ドトールとは、創業者の鳥羽博道がブラジルのコーヒー農園で働いていた時の下宿先の住所に由来する。
サンパウロのドトール・ピント・フェライス通り85番地。
 ドトール・チェーンは1400店舗以上あり、約1000店舗の日本スターバックスを上回る店舗数を誇る、いわば国民的カフェだが、その原点もまたブラジルだったということだ。

そして今度はグローバリズムの文脈で、再びブラジルへの進出がはじまった。
YKKの農園経営とカフェの今後を見守りたい。