2013年12月24日火曜日

ニューヨークの夢、夢のイタリア

クリスマスになると、決まってポーグスとカースティ・マッコールのデュエットによる「ニューヨークの夢」をかける。
なぜ、この曲をかけるのかについては毎年書いているが大事な話なので今年も書く。

堕ちた天使
堕ちた天使
posted with amazlet at 13.12.24
ザ・ポ-グス
Warner Music Japan =music= (2008-01-23)
売り上げランキング: 105,937

昨年は映画「華麗なるギャツビー」に魅せられ、翻訳ミステリ「夜に生きる」に痺れた。
どちらの物語もその背景にアイルランド系移民の恵まれない環境がある。
「自由」の旗の下で生きていくことの厳しさの側面が、そしてその中で生きていくことに決めた人間の強さが描かれている。

ポーグスの「ニューヨークの夢」に描かれているのも、アイルランドから夢を追いかけてアメリカに移住して来た移民の物語だ。
なかなか成功を掴めず年老いてしまった夫婦が、若い頃の出会いから始まり、クリスマスの夜に飲んだくれて警察に拘置され一夜を明かした翌朝の会話で終わる。
その会話がこれだ。

「俺には明るい未来があったはずなのに・・」

「そんなこと誰にだって言えるわ!
「最初に知り合った時に、あなたは私の夢を持って行っちゃったのよ」

「ああ、その夢なら俺が今でも大事に預かっているよ
「自分のと一緒にしまってあるのさ
「俺はどうせ一人でやっていけるような強い男じゃない
「君がいなければ夢を持つこともできないんだ」


僕は毎年クリスマスになるとこの曲を聴き、そして今もこのご老人の言い分に激しく共感している。
僕もまた一人では夢を持つこともできなかった男のひとりだからだ。


豊かになった日本に生まれ、戦争も知らずに生きてきた僕たち夫婦は、そのうえさらに幸運にまで恵まれて、こうしてお互いの郷里に近い札幌で、お互いが夢見てきた喫茶店とケーキ屋さんを融合したようなお店を開くことができた。

でも本当にこれは僕の夢だったんだろうか。

思い返すと僕の心にあったのは「サラリーマンにはなりたくない。けど今の自分に何ができる?」ということだけだったような気がする。
高校生くらいの時から、そのような自問自答の消極的な選択肢として「喫茶店ってのもいいかなあ」とは思っていた。

でも結局そのための何かをするでもなく、好景気の後押しで大学の先輩に勧められた会社に就職して社会人になってしまった。
そうして配属された部署で、僕の目の前の席に、子供の頃からの「ケーキ屋さんになりたい」という夢を実現するための資金が欲しくて就職しましたっていう人(家内デス)が座っていた。
僕は自分の考え方の甘っちょろさに深く深く恥じ入った。

そして図々しい僕はその人の「意志」に自分の漠然とした希望を仮託することで、形をもった「夢」に変えてもらったのだ。
そうしておいて、僕らは二人分の夢を束ねて半分ずつの力で実現したのだった。

そして強欲な僕らは、二人で作ったもうひとつの夢を持っている。
家内の菓子職人修行のスタートがたまたまイタリア料理店のドルチェ担当であった縁で、イタリアという国に興味が湧き、二人でイタリア語を学び、実際に何度もイタリアに出かけた。
バイオリンが生まれた街クレモナには音楽が溢れていた。
欧州文化の故郷フィレンツェには、料理や菓子、文芸や舞踏、そして絵画など今も我々の胸を打ち続ける文化のルーツが眠っていた。
ヴェネツィアには職人の誇りが息づき、シエナには静謐な「生活」がゆっくりした時間の中をたゆたっていた。

この国で暮らしたい!
と、思った。
そしてその前にイタリアで知り合った人たちのように、郷里にきちんと根を下ろし、自分の好きなことでコミュニティに貢献する生き方をやろう。
そんな生き方が板につくまで、イタリア人に混じっても恥ずかしくないと思えるまで、頑張って働いて、すり減っていこう。
そうして歳を取ったら憧れのイタリアに二人で住んで、それまでの生活を懐かしみながらゆっくり暮らそう、と約束した。

そんなふうに新しい日々を過ごし始めてもう7年が経った。
上司も部下もいない。どんなことの責任も自分にあるという生活はなかなかしんどい。

僕たちの気持ちをよそに、国は大企業にまず儲かっていただいて、中小企業の皆さんはそのおこぼれでなんとか食べていってね、と言い出して、大企業向けの減税と合わせ技で中小企業殺しの伝家の宝刀「消費税増税」を二度にわたって振るう予定だ。
また、すごく美味しいものを作っても、「高くて美味しいなら当たり前じゃん」などと言って切って捨てられる風潮の中で、材料を偽装して、自らのプライドを削ってまでして生きていかなくちゃならない世界に、気が付けば僕らはたどりついていた。

そんな四面楚歌な世界の中でも「その夢なら、今でも僕が預かっている」と思えているだろうか。
僕はクリスマスが来る度に、ポーグスの「ニューヨークの夢」を聴きながら、その約束が風化していないのを確かめる。
そして、二人分持ったのに重くならずに、足取りが軽くなる「夢」の不思議を思いながら、僕たちは今日もこの世界を歩いて行くんだ。


2013年12月10日火曜日

ウィンドウズユーザーになりました

先々週の金曜日、そろそろ決算の準備もしなくちゃな、と愛用の白いMacBookを起動してあれこれデータを確認していたら、ハードディスクからカリカリと異音がしはじめて、突然落ちた。
結局それから二度と起動することはなく、ご臨終となった。

MacBookのバヤイ、問題がハードディスクなら修復自体は難しくない。
新しいハードディスクを買って入れ替えるだけ。
しかも、2007年以降の機種は入れ替えにコンピュータを開ける必要すらなく、バッテリケースの中から壊れたディスクを引き出して、新しいものを挿入するだけで修理が完了する。

が、失われたデータはどのみち戻ってこない。

インストールしていたアプリケーションも、昔ならディスクを探して再インストールするだけだが、今時はそれほど単純じゃない。

マイクロソフト・ウィンドウズをパラレルズで動かしていたが、前回の再インストールでプロダクトコードは電話で再発行してもらったもので、そもそもメモなんかしないで直接打ち込んだものだし、マイクロソフト・オフィスは、インストールできる台数が決まっているから、これまた電話して前のコード一台分取り消してもらって、再発行してもらわなくちゃならないが、そもそもクラッシュしたマシンに打ち込んだコードがどれかなんてわかるはずがない。

これはなんとかしてソフトウェアハウスの裏をかこうとするユーザーが多いことへの対抗措置の結果だ。
結局、ユーザーはこのような違法行為で自らの利便性を失うわけだが、問題は損をするのはいつも正直者の方だ、ということだ。
この件について「賢い方が得をする」とういうような見方をしては絶対にいけない。
違法行為のほうが賢い行動であるような世の中を許容してはならないのだ。

失礼、怒りのあまり脱線した。
話を戻す。

このような面倒を押してハードディスクの修復をするくらいならいっそ新しいマシンを導入しようと思ったのだが、これにはもうひとつ大きな理由がある。

会計ソフトだ。
この店は青色会計で毎年の申告を行っている。
税理士さんに頼むような会計規模ではない。
しかし自分で帳簿を付けるような知識はない。
だから会計ソフトに頼りきっている。

しかし、しかし、だ。
マッキントッシュ・コンピューティングの世界にはまともな会計ソフトがないのだ。

唯一といってもいい、個人事業向けのマック用会計ソフトはマグレックスという会社で作っている「マックの青色会計」というプログラムだ。

これを導入して初年度の申告書類を作った時、最初なので商工会議所の税理士さんにお願いしてお手伝いいただいたが、初年度の赤字決算に対して青色控除の65万がそのまま出力され、「所得額」の欄が、マイナスの数字で出力された時には、税理士さんも心底驚いておられた。もちろん赤字だったら青色控除額はゼロで「所得額」だってゼロである。
お粗末なのだ。

それに固定資産の多い持ち家での飲食業の場合、固定資産台帳の管理がもっとも面倒だが、この機能が貧弱そのものだ。
というよりバグだらけだ。
毎年バージョンアップにつきあって今度こそと祈るように入力するのだが、いっこうに正しい計算をしてくれないので、去年業を煮やしてサポートにデータを送りつけてどうして正しい計算をしないのか、と質問したが、答えは「最新版にアップデートしてください」のひとことだった。


こんなことがあったので、今回のハードディスクのクラッシュは僕には何かのサインのように思えた。
だから、あまり迷わずにその夜コンピュータを買いに出かけた。

ビックカメラに行って、「オフィスが入ってて、一番安いウィンドウズ・ノートをください」と言ったら「ところでお客様、インターネットはフレッツですか、auひかりですか」と聞くので、何の関係があるのか質すと、キャリアの切り替え込みでお安くできるので・・と言う。
こんなところまでキャリア切り替え戦争の仕組みがビルトインされているとは・・
「その種の面倒事はごめんですから」と言って店を後にした。

ネット通販で買うか・・と思いながら街を歩いていると、なにか世界から疎外されたような気がして、このまま帰れない気分になってヨドバシカメラに足を向けた。

注意深く店内を見ると、ここでもやはりキャリア切り替えが見積にビルトインされているようだ。
応援の店員のユニフォームもフレッツとauのロゴが入っている。
意を決して「事情があってキャリアの切り替えはしませんが、その前提でオフィスが入っていて、一番安いウィンドウズ・ノートをください」と切り出した。
店員の胸にはフレッツのロゴが光っていた。
「メーカーとかなんでもいいんですか」と聞かれたので、この際なんでもいいと答えると、Lenovoの黒い無骨なノートパソコンを教えてくれた。

一時期会社でIBMのThinkPadを使っていた。
トラックポイントというポチっとした突起をマウスがわりに使う個性的なインターフェイスが結構気に入っていた。
中国のメーカーに売却されてレノヴォブランドになっても、だから悪いイメージはない。
これください。


というようないきさつで僕はウィンドウズユーザーになった。
会計ソフトは「やよい」に決めていたので早速買ってインストールした。

事業環境や初期残高を入力する。
合理的なインターフェイスに感心する。
昨年出力した貸借対照表を見ながら初期残高を入力していくと、マックで出力した表には「事業主貸」の欄に数字が出力されているが、「やよい」には入力欄がない。
?と思い、ググってみると、繰越の際には事業主貸は元入金に振り替えるのが正しい会計処理というものらしい。

僕は今まで雇っていた税理士が無免許のモグリだったと打ち明けられたような衝撃を受け、それを教えてくれた新しい本当のプロの税理士の「やよい」さんに全幅の信頼を今寄せている。

同時に、使えば使うほど、どう考えてもどこをとってもMacOSの方が優れていると思うのに、このプラットフォームに優れたソフトウェアをリリースするメーカーがないという「経済原理」の矛盾に経済学という学問はどういう答えを出すのだろうと、訝しい気持ちになっている。

2013年12月3日火曜日

マネジメントするということ:「管理」ではなく「情熱」で、「組織」ではなく「社会的意義」を

夫婦で商売をやっていると、最初のうちは「いいですね〜」と言われるが、打ち解けた話になると、特に男友達からは「でも奥さんと仕事って大変じゃない?」と訊かれる。
もちろん大変だ。

でも夫婦だからなのではない。
上下の関係がないところにマネジメントもないからだ。

一応カタチの上では僕の個人事業ということになっているが、自家焙煎珈琲および喫茶部門と製菓販売部門の二人のCOO(chief operating officer)、というのが実情だ。
売上の大きさで言えば、家内の事業の方が若干大きいわけだが、だからといって事業の本質である「味」に言及出来ない以上、どちらかが代表してこの全く異質な事業をマネジメントすることは事実上できない。

だから、僕らはお互いのマネジメントをしない。

しかしそれでもひとつの店をやっている以上どうしたって、合意を形成しなくてはならない場合もある。
そんな時、「僕ならそういうやり方はしないがなあ」と思っても、伝えようとすれば指示や提案といった穏健なものにはならず、夫婦喧嘩の一形態として顕現することになる。
マネジメントが介在できないから、そうなるしかないのだ。

そういう時僕らはマネジメントの真似事をしない。
必要と割りきって、切り出して、どちらかが我慢する。
そういう意味ではマネジメントがあったって、なくたって結果は同じなのだ。

そんな時いつも、だいたいマネジメントなんて本当に必要なんだろうか、と思う。


ピーター・ドラッカーの時代の「マネジメント」は良かった。
それは社員の仕事のスタイルを管理することなどではなく、その事業には社会的意義は本当にあるのか、と問い続けることだった。
そのために必要な部署と役割はこうだ、と定義すること。それがドラッカーのいうマネジメントの本質だ。

それが、「失われた10年」あたりから、人心掌握術とか人物評価法とかスタイル変革みたいな内向きのマネジメントが有難がられるようになり、なんだか窮屈な世の中になっていったのを覚えている。

平成元年に新卒で入った会社でお世話になった当時の課長は、そのようなマネジメントは一切しなかったように思う。
でもその課長は営業進捗の報告と、時々同行していただいた時の感触から、直接担当している僕よりも正確に、その商談の行方を見抜いた。
その理由が知りたくて、同行してもらうと課長がお客様に話す内容をずっとメモしていた。
ずいぶん後になってから、親しくなったお客様が「新人の頃の君はずっと課長の話を一生懸命メモしてたけど、最近話し方も似てきたね」と言ってくださった。
不思議にそんなことがうれしかった。

その後僕も課長になって、部下と一緒に営業をした。
管理するのではなく、僕ら自身が社会に必要とされているかどうかを一緒に体感したかった。
課長の背中を見ながら仕事をしていたあの頃のように。

でももう時代はすっかり変わっていた。
限られたリソースで経営が要求する数字を作らなくてはならない。期待されている時間も短かった。
僕のチームは一定の成果をあげることが出来ず、年度途中で解散させられた。
そしてマネジメントの必要がない、今までとは違うミッションが与えられた。
今までの日々のすべてや、あのお客様の言葉さえもすべて否定されたような気がして、自分の力不足がとても悔しかった。

その日から僕は、かねてからやりたいと思っていた喫茶店というスモールビジネスを、「管理」ではなく「情熱」を使って、「組織」ではなく「社会的意義」を維持できるものにするにはどうすればいいのか、を真剣に考え始めて、現在のカフェジリオの基本的な枠組みを構築したのだ。

頑なに成長を拒否しながら、ありったけの情熱を注いで、昨日と同じ今日を歩もうとする路地裏のカフェは、今のところうまく機能しているように思える。
だからあの日負った心の傷を忘れるわけにはいかないのだ。
この痛みだけが、僕自身をマネジメントしているのだから。