2014年10月10日金曜日

「能」とコーヒー、あるいは「無私」の焙煎道について

世にメールマガジンは星の数ほどあるが、新潮社の雑誌「考える人」の編集長河野通和(みちかず)さんのものほど深く心に忍び込んでくるものはない。
すぐれた文学作品ほど、これは僕のために書かれたに違いないと思わせるものだが、河野さんの文章にもそういうところがある。


今日届いたメールマガジンには、あのミシマ社の創業者三島邦弘さんの新刊について書かれていた。出版社であるミシマ社の社長である三島さんの本が、朝日新 聞出版から出たという話を新潮社の編集者のメールマガジンで読むというシチュエーションにちょっと戸惑いながら読み始めた。


そこには「能」のシテとワキのことが書かれていた。

話し手であるシテから話を引き出したあと、舞台の隅で木偶のように座るワキは「何もしないことを全身全霊でしているのだ」という一節からは、一読ではわからないが、何かここには大切なことが書かれているという匂いがしていた。

三島氏は、能楽師からこの話を聞いて、編集者にこそ「全身全霊で何もしないこと」が重要なのだと悟ったと言う。
自分発信に走ればかえって主体は遠ざかる。自力で全てを動かしてやろう、そういう自意識ほど自然からはるか遠い行為はない、と。


すぐに思い出したのは、たった一日しか師事しなかったのに、その教えが隅々まで心に染み込んでいるコーヒー焙煎の師匠、中野弘志さんのことだ。

中野さんの焙煎教室は、マンツーマンで、一日中コーヒーを焼く。とにかく焼く。
焼いてる横でこう言われる。

浅煎りとか、深煎りとか考えてはいけない。 
その豆が焼かれたがっている深度はたったひとつしかないはずなんだ。その声に耳を傾けろ。豆の肌を見ろ。
教えてもらうんじゃない。君が感じるんだ。

中野さんが僕に教えようとしていたのは、このワキの精神に違いない。

コーヒーは嗜好品だ。
だからコーヒーの好みなど100人いれば100通りあっていい。
その100通りの好みを持つお客様に、焙煎士は何を信じてコーヒーを提供すればいいのか。
そこに「私」が入り込むということは、端的に言えば、好みに合わないお客様の嗜好を「コーヒーの分からない人」と切り捨ててしまうことになるのではないか。

コーヒーの焙煎から、全身全霊で「私」を取り除くこと。
それが、ワキの精神をコーヒー焙煎で実現するということなのだろう。

「無私」の焙煎道か。
自分が歩いてきた道の果てし無さにちょっと目眩がした。

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