2015年9月7日月曜日

64年のシンボルマークに込められた本当の意味

前職で、幹英生(みきえいせい)さんという画家で、グラフィックデザインも手がけられた方と3年ほどお仕事をさせてもらった。
請け負ったのは、毎年数百ページに及ぶパンフレットを作るという仕事だった。
大詰めになるとクライアント先や印刷所(印刷に回す直前まで修正を重ねるため)にまで泊まりこんだりした。
ハードな仕事だった。

仕事が終わると幹先生が新橋の裏通りにある隠れ家的なお店に連れて行ってくれて、オリンピック周辺のデザイン事情の激動についてよく話してくださった。

僕がいたのはリクルートという会社で、64年オリンピックのシンボルマーク(と当時は言っていました)を作った亀倉雄策先生は当時まだご存命で、リクルートの例のかもめのマークをデザインしてくださったご縁で、リクルート事件で揺れる会社を助けるためにもと仰って、役員をお引き受けくださっていた。


亀倉先生や早川良雄さん(こちらも昭和を代表するグラフィックデザイナーです)と親しかった幹先生はあのシンボルマークの裏話をよく知っておられて、それは本当に面白く、現代の日本に大きな影響を与えたイベントだったのだなあと強く印象に残っている。




まずあれは日の丸じゃない、というところに驚く。赤い太陽なんだと言うんですね。
つまり国旗を置いたんじゃなくて、国旗を定めた時のスピリットを置いているんだと。
すげえ話だと思いました。マジで。

で、そう言い張ってるだけじゃなくて、デザインでそれを主張しているんだと。
それが赤い太陽と金色の五輪の間の限界まで絞った「隙間」なんだと。
あそこにあれ以上余白があると国旗になってしまう。
これがデザインというものかと心底感動しました。

当時のデザイン業界は、今ほどは大きくなく、今の感覚で見れば身内で審査しているみたいな感覚ですが、こういうデザインマインドが生み出す感動みたいなものを共有してるんですね。
そこには何かに似ているとかいう発想は最初からない。

4年ほど前に出た「東京オリンピック物語」にその辺の話も出てるんじゃないかと思って期待して出版を待って買ったのですが、ばっちりそのまま書かれていて嬉しかった。業界ではよく知られた話だったようですね。

他にも、競技の勝者をリアルタイムで報道する世界ではじめてのシステムを開発した日本IBMのエンジニアや、帝国ホテルの村上シェフが采配を振った一万人におよぶ選手村への給食、谷川俊太郎が脚本を書き市川崑が撮った芸術性の高い記録映画が、組織の論理に押しつぶされてスポイルされていく経緯など、64年 のオリンピックを支えてたのは、損得勘定の「政治」や無責任な野次馬と闘った生々しい「個人」のドラマだったことが描かれている。

表舞台も裏方も、今も昔も、結局人の情熱だけがオリンピックの精神に相応しい感動を生み出すのだと思う。
誰かの与えてくれた感動で2020年も振り返ることができるといいなと思います。


TOKYOオリンピック物語、もう文庫になってました。


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野地 秩嘉
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