2012年11月27日火曜日

受け継ぐべきもの:The road to Cafe GIGLIO part-4

リクルートにいた頃、専門学校さんに募集広告のご提案をするのが私の仕事だった。しかし、広告というものは所詮学校の力以上のものは発揮できないものである。問題はその学校の良さ、というものが学校自身にも認知されていないというところにある。それは創業者の人生まで含めた「歴史」の中や、現在生徒を教えている「先生一人ひとり」の中に眠っているのだ。
だから取り急ぎ、それは揺り起こされなくてはならない。そしてご自身たちの口によって、同じ言葉で繰り返し語られなければならない。

と、いうようなお話を学校の経営者の皆様に申し上げると、よく「今の話を職員に話してくれないか」と言われた。そして研修が企画され、せっかく場をいただいたのだからと、そこで職員の皆さんと簡単なゲームをやって、教職員の皆さんの中に眠る学校の魅力を言語化していった。

手間がかかり、時間がかかり、効果もゆっくりとしか現れないが、確かな手応えのある方法だと思う。
だから自分の事業を作り上げる時だって、もちろん同じ事をやったのだ。
自分の事業と言ったが、この事業のコアはパティシエである家内のケーキ職人になりたいという強い思いにある。
だから店名にもパティシエの名前である百合子をイタリア語にしてGIGLIO(ジリオ)と付けた。それがイタリア語なのは、彼女がはじめてパティシエとして働いたお店が三軒茶屋の「ペペロッソ」というイタリア料理店であったことに由来している。その店でイタリアの文化に触れ、惚れ込み、長い休みの度にイタリアに行くようになり、ある年、シエナで見かけた小さなホテルの壁に描かれた百合の花とGIGLIOというホテル名を見て、あ、これだな、と直感したのだから。

その後、ペペロッソの社長が、「本格的に菓子をやりたいなら、友人のやってる菓子店を紹介してやる」と言って下さって、移ったのが「ヒサモト洋菓子店」で、日本洋菓子協会の初代会長の久本氏が昭和15年に開いたという老舗。お孫さんである三代目が経営者だった。残念ながらご病気のため2005年に逝去され、お店も閉店となってしまった。

しかし、今でもヒサモトのケーキや焼き菓子のファンは多く、ヒサモトと同じスタイルの丸いショートケーキを、検索で発見して東京から食べにいらしたお客様もいたほどだ。

日本の高度成長期、東急グループの総帥であった五島昇氏は、東急田園都市計画を策定し、渋谷、三軒茶屋、自由が丘、といった地域に商業施設をセットした住宅都市を作り、それを電車・バスなどの交通網で結んだ。ヒサモトの創業者、久本晋平氏はこの東急田園都市計画に賛同して、東急沿線に店舗を拡大していった。豊かになっていく日本の家庭で、休日の団欒を暖かい色彩で彩る洋菓子を提供してヒサモト洋菓子店は大きくなっていった。
ヒサモトのレシピは、奇をてらったところはないが、口に入れれば優しくて暖かい味がする。それこそがヒサモトが時間をかけて磨いてきた家族の団欒を彩る力であったのだ。

この「歴史」こそが我々が継承すべき「情熱」であり起点とすべきものだ、と思い定め具体的な商品の設計を行う。そのひとつの到達点が「卵」であった。
素材を吟味していくうちに、ケージに閉じ込められ工場で大量生産されるように作られた卵と、人の手をかけ自然に近い状態で、自然な餌を食べて育った鶏が産んだ卵ではこんなにも味が違うのかと驚いた。近郊で「平飼い」で鶏を育てている農家さんの卵をいくつか試して、ケーキやプリンとの相性がいい余市の「滝下農園」さんにお世話になることに決めた。


当時、我々も子育ての真っ最中だった。だからあたたかい家族のふれあいを彩るためのケーキの味を、命の源である卵が作るというのは至極当然のことに思えた。
だからこの店のシンボルマークを、卵を産んでくれる「鶏」にしたのだ。

デザインはリクルート時代にお仕事のことやら遊びのことなんかも教えていただいた大先輩の大嶽一省氏にお願いした。現在はご自身の事務所をお作りになって制作物の範疇にとらわれない広い意味で様々な「コミュニケーションのデザイン」をしておられる。当店のデザインでも、ロゴマークをデザインするにとどまらず、「卵の味」を最もストレートに伝えるシュークリームに「ママのシュークリーム」と名付けるといった、コミュニケーションのフレームワークに踏み込むデザインを施していただいた。

ある日、女性のお客様が帰り際に、「このお店のショートケーキを食べたとき、何年も前に亡くなった父が、子供のころによく買って帰って来てくれたケーキの味を思い出しました。なんだか、あったかい味のするショートケーキですね。」とおっしゃってくださった。「ありがとうございます。」と答えながら、「あったかい味」という表現が、この方がお父様に寄せていらしたのであろう愛情を感じさせて、不覚にも涙がこぼれた。

そして、我々が受け継いだ歴史が、心をこめて作っていただいている食材が、そしてそれらを巧みに組み合わせてデザインされたコミュニケーションのフレームワークが「届いた」と思った。
こんなうれしいことはない。
仕事を通じて得られるヨロコビというのは、どんな仕事でも一緒なんだね。

2012年11月19日月曜日

ドラッカーが教えてくれた路地裏のカフェの経営:The road to Cafe GIGLIO part-3

電話帳に「喫茶店」というカテゴリーで電話番号を載せているから、こんな小さなお店にもひっきりなしに広告代理店の売り込みの電話が来る。ことに今はインターネットの時代だ。しかし、僕は、18年も広告の営業マンをやっていたから身に沁みてわかるのだけれど、こういう店に、広告を売り込むのは本当に難しい。


「リピーターを増やすためのメールマガジンシステムを導入しませんか」
「すでに、ほぼリピーターのみで経営をしていますが。」
「はあ、そうですか」

「Yahoo!の検索ロジックが大きく変わりましたので、新しいSEO対策が必要です」
「お客様のご紹介で、新しいお客様が増えていく経営を志しておりますので、SEO対策になるようなことは慎重に避けております。」
「はあ。そうですか」

別に悪気はないのだが、会話は成立しない。
電話をかけてきた方も不思議に思うだろう。お客さんはたくさん来た方がいいと思っているからだ。何しろ彼らは、この店がどんなとこに建っているか見てもいないのだから無理も無い。
このあいだ、電光掲示版の看板の営業マンが飛び込みで来たが、周囲を見渡し、
「ここでは、やっぱいらないですかね」と言って帰った。
そういうことだ。


営業マン時代に大変お世話になった専門学校の広報部長は、
「本当に素晴らしい学校になれば広告はいらないだろう。その素晴らしさとは、学校の場合は教育内容のことだろう。だから教育内容に、まだ不十分なところがあるから広告に頼っているわけだが、いったい何を広告に書けというのだね?」とおっしゃった。
無論、思考ゲームのようなものだし、充分反論もできるが、なるほど一般論的な広告というものの限界点を上手に指摘していると思い、考え込んでしまった。
考え込んで、それってこれのことだよな、と思い出したのがドラッカーだった。

「企業の目的の定義はひとつしかない。イノベーションとマーケティングで顧客を創造することだ。」という超有名な名言の補足にある、「マーケティングとは、買わないことを選択できる第三者に、喜んで自らの購買力と交換してくれるものを提供する活動のことである。 マーケティングの狙いは、顧客というものをよく知って理解し、製品が顧客にぴったりと合って、ひとりでに売れてしまうようにすることだ。」というこの言葉。
広告の必要の是非を超えて、経営努力の本道を指し示す不滅の真理だ。
当店にお電話いただく、営業の皆様には謹んでこの言葉をお送りしたいと思う。

そして、我々もこの言葉を起点にカフェジリオという「家業」をデザインしている。
「イノベーション」という言葉は、革新するという意味だが、ドラッカーがその言葉を使う時、マーケティングの結果を経営に取り込むことを強く意識している。
そしてその「マーケティング」とは、「市場を知る」ということであり、気の利いた宣伝文句で商品の欠点を覆い隠すことではないのだ。
スターバックスのコンセプトはよく知られているように「第三の場所」というものだ。職場でも家でもない、第三の「場所」を提供することが彼らの主務である。
私たちの店のコンセプトは「現代のオイコス」であるから、地域社会に調和して、我々の持つリソースを役立ててもらう、ということが目的、ということになるだろう。そして我々の持つ優位性の高いリソースといえば、「味」しかない。だから我々の注力すべきイノベーションは、良い味を生み出すための工夫以外に求めるべきでないと思う。
限られたリソースで長く経営するためには「コア」に負担をかける戦略を選択すべきでないということも重要な要素だ。

この店の立地は、そのコンセプトを最も顕在的に表現した戦略だ。
路地裏にあるから、地域の人たちには認識してもらえる。情報を漁って付加価値を求めてカフェめぐりをする人ではなく、「ここ美味しいのよ」というリアルな人間関係の中で紹介してもらえる。そういう我々の提供できる商材とズレのない期待に応えるべく頑張ればいい。だから付加価値に気を取られずに味の研鑽に邁進できるし、そういう日々そのものが生きる楽しさに充ちている。
もちろんそれは我々の都合であって、わかりにくい場所をわざわざ探して来ていただくことのエクスキューズにはならない。いつも来ていただくお客様には本当に感謝しています。

また、ドラッカー自身は、「利潤の追求」は長期的に見ると会社の存続に悪影響を及ぼすことが多く、企業の商材が社会に価値を生み出していくことこそが経営の要諦であるという言い方をしている。
我々のような小さな事業ではこのことはまさに真理で、身の丈を超えた利潤を得るために考慮しなくてはならない「付加価値」は、いつか必ず自分たちに重い負担となって返ってくるだろう。

これからもなるべく「付加価値」に背を向けて、地域と我々自身の家業のために頑張って行きたい。

なお本稿の「ドラッカーが教えてくれた路地裏のカフェの経営」というタイトルは、カフェジリオの常連のお客様でもある株式会社インタフェース代表取締役の五十嵐仁様が企画された講演会でお話させていただいた際、五十嵐様に考えていただいた講演タイトルで、以来気に入って人前でお話をする機会がある度に使わせていただいている。改めてご紹介して御礼申し上げたい。

2012年11月14日水曜日

カフェをデザインするということ:The road to Cafe GIGLIO part-2

お客様の中には、将来的にカフェを経営したいとお思いの方もけっこういらっしゃって、私たちのカフェジリオのデザイン、家具、食器など細部に至るバランスに興味をお持ちいただいて「いったいどのように構想されたのか」と質問を受けることもよくある。
そう言っていただけると正直とてもうれしい。

本当は食器だって、家具だって、東京中歩いて、札幌中歩いて、インターネットもできるだけくまなく徘徊して、吟味して吟味して選んだのだ。
で も最終的にカフェジリオというパッケージにある種の「雰囲気」をもたらしているのは、店全体のデザインだ。このデザインがあったからこそ、そこにピタッと はまるものを選ぶことができたのだと思う。だから、ご質問してくださったお客様には、この店のデザインをどうやって構想したのかをお話しすることにしてい る。

で、それは実にシンプルなお話だ。


「このスピーカーに似合うお店を作って下さい」と言ったのです、と。

そしてこれはほとんど実話だ。

会 社員時代、私は広告を売る営業マンで、お客様の要望をマーケットに照らして制作サイドと広告を作ってきた。あまり細かい指示を出して作られた広告はすべて の要望を叶えようとするあまりピントのぼけたものになりがちで、しかもあれもこれも書いてあるので、お客様が細々と直したくなってくる。で、その修正を反 映させていくとますますぼけていくものだ。だから、一番大事なことだけ伝えて自由に作ってもらう。あとは出来上がったシンプルで力強いメッセージが「どう 社会を変えるのか」をプレゼンすればいい。たいていの場合、それはうまくいった。
だから自分でお店を作る時もそうした。


問題は自分にとって何が一番大事か?だった。

会 社員時代の終わり頃、向かいの席に座っていた大先輩は、(我々は学校広告を作っていた)「その学校の最も中核を成す特徴は、その学校ができる以前に、創立 者が様々な道がある中でわざわざ学校を作るという道を選んだきっかけの中に潜んでいる」と信じていた。だから当時を知る関係者やご本人にインタヴューを重 ねて、それらしき仮説を見つけると、現在教壇に立つ先生たちに「最も教育成果があがったと思うご自身の経験」をインタヴューして、それらを重ね合わせてみ ると、創立時の思いが何十年たった今でも脈々と学校の中に生きているのを発見して、学校の方も我々もびっくりする。
そしてそういうシーンに私たちは本当に何度も何度も立ち会った。


では自分にとってのそれは何か?

喫茶店が自分の未来の可能性のひとつとしてカタチになったのは多分予備校時代のころだと思う。
高 校は地元釧路の進学校で「元神童」たちがわんさか集まっていて、自分などは中の下が精一杯なんだと思ったし、中学時代部長までつとめた剣道を続けようと剣 道部に入ったら、世の中には化け物みたいに強い人がいっぱいいるのだと知った。 音楽が好きで作曲なんかもしていたが、一つ上に、後にZiggyのドラマーになる大山さんがいたり、同学年にMINKSでプロデビューした岡田ヨシアキく んなんかがいて、段違いの才能を感じた。
案の定大学受験にも失敗して、札幌の予備校に入った。
寮に入って、よく深夜にヘッドフォンでラジオを聴いていた。さだまさしさんの「案山子」がかかって聴くともなしに聴いていたらふいに涙が出てきて止まらなくなった。
小学生の時、友だちの家でお姉さんのものだというベイ・シティ・ローラーズのレコードを聴いた時。
中学生の時、はじめて買ってもらったシステムコンポでエアチェックしたFM放送の甲斐バンド・ライブを聴いた時。
音楽はいつもふいに心を激しく揺さぶる。
どんな人生になるにせよ、ずっと音楽と一緒にいようと思った。

その時ふと頭に浮かんだのが、喫茶店を経営して好きな音楽をかけて過ごすという日々だった。
むろん、甘っちょろい幻想だ。現実になるとも思っていなかった。
でもなんとなく自分らしいかも、と思って親しい友人にはこっそり話した。

そ の後、大事な出会いがあったり、会社での仕事を通じて学んだこともたくさんあって、頭にふと浮かんだ、好きな音楽が鳴っているだけの喫茶店は、「路地裏」 という骨太のコンセプトを得て25年もかけて大きく成長して今の形になった。しかし間違いなく「音楽が鳴っている」ことが一番重要で、だから一目惚れで 買ったこのタンノイのグリニッジというスピーカーこそがこの店の姿を決めるべきキー・フレームだと思ったのだ。

愛機グリニッジは、今日も快調にハンク・モブレイのジャズを鳴らしている。25年前思い描いた音とはずいぶん違うけど、きっとずっとその時々のカフェジリオの音を鳴らし続けてくれるだろう。それができるだけ長く続くといいと思う。

2012年11月9日金曜日

カフェジリオさん「不認可」です。

この写真はカフェジリオの営業許可証。開店時に保健所からいただくものだ。二枚あるのは飲食店営業と菓子製造業を兼業しているからである。それぞれの許可は店舗の特定の「スペース」に対して行われる。主に食中毒のようなトラブルを起こさないよう適切な施設・設備構成になっているかを審査して許可される。
今回問題になった大学の認可に似ている。

我々の場合は建築が終わり最後の実地検分の時にオーディオ機器が飲食店営業許可部分に置かれていることが問題となり「不認可」となった。
コストと時間をかけ工事をやり直してやっと営業許可をもらった。事前の説明では営業に関係ないものは置かないでください、とのことだったがオーディオは僕の中では当然必須のものだし、カウンター内に機器のない店を逆に見たことがないのでそのまま作ったら、それは「調理に関係ないから」駄目だとのことだった。多くの店は何も置かずに実地検分を受け、許可をもらってから機器を置くのだそうだ。許可をもらってから全面改装した猛者もいると聞く。僕は長年憧れたMcIntoshのアンプを買ったのがうれしくてうれしくて、真っ先に機器を置いたのでこれが裏目に出たということか?いやいや遵法精神ですよ。それが一番。おかげで次の許可更新の時、なんの気兼ねもなく申請を出せるもの。

これが我々の小さい店の話だからいいが、大学の場合は、そんなことは到底出来ないほど大規模なコストがかかる。だから、この書類通り作ってくれたら認可をするから、と約束をして建設をスタートして最後に実地検分をして認可証を出す、という段取りになっている。だからもちろん書類を作るまでに相当緻密な審査をしているし、なによりも教育内容が大学教育に妥当なものか、という相当厳しいやりとりの末に認可の「約束」が取り交わされる。
昔お世話になった大学の新設学部はあまりにも先進的でなかなか時代が追いついて来ず、完成までに文科省とのやりとりを7年間もやった例があるくらいだ。
で、この段階を「申請書類を提出し、受理した」と呼んでいる。
ここから建築がスタートし、学生募集も開始される。
そして最後に、建築後の実地検分をして問題なしとなってから「認可」となるわけだ。

このように大学の新設認可の手順に使われる言葉は、通常我々に与える印象とかなり異なっている。実質的な「認可」を「申請」と呼び、そして実地検分の「合格」によってはじめて認可証が出て、これを「認可」と呼ぶのだから。

そしてこの「ズレ」こそが今回の問題の真の原因なのではなかったか。
田中文部科学大臣は、ご自身の教育行政のビジョンに基づいて、まだ「認可前」の学校の新設を却下しただけで、まさかそれがすでに実質的に認可を約束した後の突然のちゃぶ台返しになるんだなんて思ってもみなかったに違いない。

政治的な発言は厳に慎みたいが、この騒動が起きて以来「認可前に建物が建っているのはおかしい」などという言葉がよく聞かれるようになったので、黙っていられなくて書いた。

また、補助金が交付されているのだから無為に大学を増やすべきでないという発言もよく聞かれるようになったが、その認識も少し実態と違っているように思う。その根拠として「定員割れになった私大にも学生の数に応じてほぼ一律に配分されており、」などという言説を見かけるが、補助金は「一人あたりいくら」、というようなルール下で運用されているのではなく、教育事業の公的性格に配慮しての事業補助として行われている。だから定員割れの大学は教育事業としての公共性が他よりも劣ると判断して補助金を減額する仕組みを採用していて、その減額幅も2008年から暫時大きくして昨年2011年に最大50%までの減額体制を完成しているのだ。さらに、定員超過をしても補助金はカットされる。設備や教員は基本的に定員分しか用意されていないわけでオーバーすれば必要な教育の品質が保てないと判断されるからだ。また全学年が揃う「完成年度」まで補助金の申請はできない。

で、考えてみると現在すでに大学進学希望者は全員大学に進学できる「全入時代」である。だから大学の数が増えると、それぞれの学校の取り分が減り、定員割れの大学が増え(現在でも40%近くある)、しかも新設大学は卒業生を出すまで補助金を受け取る事は出来ないのだから、大学が増えれば、結果として拠出しなければならない補助金は逆に減るのではないか。

私学助成の要・不要の議論にまで踏み込むとなると、これとはまた別種のもので、公金の使途にまつわる憲法89条解釈とも相まって長く議論されてきた複雑きわまりないテーマなのであって、この問題と絡めてさらにややこしくしてしまうべきでないだろう。

最大の問題は、田中文部科学大臣が理由としておっしゃった「量より質」だろう。今回は新設大学の不認可で、学部増などは認可しているのだから、大学が増えると、学生の質が低下するというテーゼになる。

一般には、一教室あたりの生徒を減らすと「教育の」質は上がりやすい、と考えることができる。 だが、これは今回のケースでは関係ないか、または大学数が増え入学者が分散することで一教室あたりの学生数が減り、教育の質が向上する可能性すらある。

間口を小さくすることで、競争率が上がり、質が上がる(この場合は中等教育をより高度に理解した学生が入学する、という意味だ)ということがあるかもしれない。しかし、今は大学全入時代。入学定員が増えても増えなくても100%の間口は100%のままである。

そして、「質」がこの中等教育の理解度を指しているのだとすると、問題はむしろ中等教育の有り様にある、ということにならないだろうか。遡って初等・中等教育の改革に全力を傾けたいというのであれば大賛成だ。

そもそも「大学は多すぎる」のだろうか。
それを決めるのは何だろう。学生が集まらなければそもそも補助金も出ないのだから、淘汰は起こるべくして起こっている。だから今ある学校は、それぞれに入学した一人ひとりの大学生にとって意味のある選択だったのではないのだろうか。

僕自身は、1985年に長年住んだ釧路を離れて、北海道大学に進学し、札幌に出てきた。
はじめて親元を離れての一人暮らし。
日本中から集まってきたオモロイ同級生たちとの日々。
半分大人だけど半分子どもの都合の良い身分で、バンドをやったり、古本を買いあさって読んだり、学習塾や貸しレコード屋や引越し屋なんかでバイトをした。
それは自由な生活なんだと思っていた。
大学にもクラス担任がいて、大学生になったらこの本を読め、とエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を勧められてしばらくしてから図書館で読んでみた。
はっきりとはわからなかったけど、どうも今自分が楽しんでるこれが本当の自由っていうのとは違うんじゃないかとは感じた。
哲学科に進んではみたが、今学んでるこれが、一体何の役に立つのかはわからなかった。

でも社会に出て、いろんな困難に出会うたびに、それを言語化するためのヒントは大学時代に学んだことの中にあった。
時には解決するためのヒントも。
何より解決策を探るためのスキルは大学時代の同級生との放埒の日々や、サークル活動やバイト先でいろんな人間と出会ったことによって自分の中にすでに蓄積されていた。

そのような機会をより多くの人が与えられているというのは、この国にとってとても有益なことなのではないだろうか。
むしろせっかく与えられている知性のためのチャンスを最大限に発揮してもらうために初等・中等教育を何とかして欲しい。
そうして、はじめて日本の多くの若者が充分な基礎力を持って高等教育機関に進学し、人と出会い、本に出会い、音楽に出会い、映画に出会い、今より豊かな日本を作り出してくれるのではないだろうか。
僕はそう信じたい。

2012年11月5日月曜日

エコノミーとエコロジー:The road to Cafe GIGLIO part-1


人通りのない住宅街の真ん中でカフェなどをやっていると、皆さん不思議がって下さる。

「もともと、この家を持っていて改装したんですか?」
「いいえ、このお店を作るために買った土地です。」

「相当宣伝しないと、お客さんこないでしょ?」
「おかげさまで、お客様のご紹介で、生産できる量に見合ったお客様にお越しいただいています。」

「え、6時までしかやってないんですか。明日はやってますか?ええっ、日曜日が休み?」
「すみません・・・」
「ああそうか、趣味でやってるお店なんですね。」
「・・・・」

相当不思議なのだと思う。
だからなのか、異業種交流会を主宰する先輩や、職業訓練の講演会、あげくに母校の北海道大学で就職講演などにまで呼ばれてカフェの経営についてお話をする機会をいただいたりする。
せっかくまとめたので、そういう時にお話する内容をかいつまんで書いておこう。

この店の着想を抱いたのは20年くらい前のことだけど、その時から「大きい通りの一本内側の路地」で「一階が店舗で二階が住宅」という明確なイメージを 持っていた。実際は二本内側になっちゃったけど、ほぼイメージ通りに店を作った。

経営的な見通しのことは不思議なくらい考えなかった。
決めていたのは夫婦二人だけでやるということ。
だから、商品を作れる量が決まっているわけで、なるべく明快なコンセプトを決めた方がいいと思った。いやそうでなくてもコンセプトは明快な方がいい。誰でも来れる店は、誰も来ない店になるから。

ではなぜ、「家」で、なぜ「夫婦ふたりだけ」で、か。

私の前職は株式会社リクルートで、専門学校の募集広告を作る部門での営業担当だった。お客様である学校の経営者たちは、皆さん「いい学校とは何か」という大きな問いに悩んでいたように思う。だから我々もそれを知ろうと勉強会組織を立ちあげてみんなでやいやい議論した。いい学校とは何かを語ろうとした時、「学校とは何か」を決めておかなければ正しく議論することはできない。生徒一人が教師から何かを「学ぶ」。その学びの集合体が「教室」で、その教室の集合体を「学校」と呼ぶ、とその時は定義した。ははあ、では究極の良い教育とはそれぞれの生徒に合った一対一の教育でしか実現できないね、と気付いた。確かに王族や貴族の教育はそういうスタイルだったはずだ。近代の市民社会を支えるための経済性から生まれた制約が学校という組織形態だったのだ。
逆に言えば、品質を落とすことが利益に繋がる、という構造になってしまう。
なんだかこれは少しおかしいぞ、と思うようになった。

それで、もともと文学好きでしかも専攻は哲学科で夢見がちな性向が強く経済や経営のような実学には興味がわかなかった自分だが、経済や経営が不思議な人間の裏側を表現しているような気がして、俄然調べてみたくなったのだ。

調べごとには本当に便利な時代だ。図書館にこもったりすることもなく、ほどなく経済学=Economicsの語源である「オイコス」という言葉に行き当たった。これはギリシャ語で「家」を表す言葉で、ギリシャ時代すべての事業は「家業」であったことに由来している。
かの時代、家々はそれぞれに家業を営み、その連携によって社会を作り上げていた。
それぞれの家業の売上を最大化するための内的要因を考えるのが「オイコノミー」で、これが経済を表すエコノミーになった。
また、儲かりそうな事業があったとして、その市場に同業者がたくさん現れて共倒れになったりせず、むしろ相互利益が得られるようにコミュニティ内で事業設計していく思想を「オイコロジー」と呼び、これが後に「エコロジー」となる。
脱線するが、これが現在「エコ」と呼ばれているものの語源で、動植物の世界では多様な生物が非常に狭い世界(これが「ニッチ」で、現在ビジネスの世界で狭いマーケティング・ドメインを指す言葉の語源である)で少ない資産を共有するので相互利益を最優先して自らの身体までもデザインしているように見える。その様子が、互恵関係によって成り立つオイコロジーと似ているので、環境科学をエコロジーと呼ぶようになったのである。

家業というキーワードから派生した「経済」という言葉が、内的努力による発展と周囲との互恵関係との両輪で形成されていたという発見に私は夢中になった。これが答えだと思った。
品質を落とすことが利益になる、なんておかしな構造が成立するのは、ギリシャ時代と較べて圧倒的に「ニッチ」が大きくなったからに過ぎない。だから躍起になって「グローバリゼーション」をするのだ。歪まない方がおかしい。
品質を上げてこそ利益が生じるというタイプのビジネスはどうやったらできるのか、一所懸命考えたつもりだが、そんなこと思いつくくらいなら経済学者になれる。そうでない私は、「オイコス」を再現してみよう、と思い立った。コミュニティの希薄になった現代のオイコスのカタチを模索しようと決めた。

で、家を店舗にして夫婦だけで経営する店を作ろうと計画を始めた。
家を作ってくださったデザイナーさんにも、こういった趣旨についてお話をして設計していただいた。そのついでに、現代の経済が如何に宿命的に歪んでいるかをお話して、こんなシステム早晩壊れちゃいますよ、と言っていたらリーマン・ショックが起きた。言ってたとおりになりましたね、と言われた。ほんのちょっとだけ責任が重くなったような気がした。
もう開店して6年になるが、幸いスタートから安定した経営ができている。しかし、新しい時代の「オイコス」になれているかは心もとない。ますます、褌を締めて頑張って行きたい。