そう言っていただけると正直とてもうれしい。
本当は食器だって、家具だって、東京中歩いて、札幌中歩いて、インターネットもできるだけくまなく徘徊して、吟味して吟味して選んだのだ。
で も最終的にカフェジリオというパッケージにある種の「雰囲気」をもたらしているのは、店全体のデザインだ。このデザインがあったからこそ、そこにピタッと はまるものを選ぶことができたのだと思う。だから、ご質問してくださったお客様には、この店のデザインをどうやって構想したのかをお話しすることにしてい る。
で、それは実にシンプルなお話だ。
「このスピーカーに似合うお店を作って下さい」と言ったのです、と。
そしてこれはほとんど実話だ。
会 社員時代、私は広告を売る営業マンで、お客様の要望をマーケットに照らして制作サイドと広告を作ってきた。あまり細かい指示を出して作られた広告はすべて の要望を叶えようとするあまりピントのぼけたものになりがちで、しかもあれもこれも書いてあるので、お客様が細々と直したくなってくる。で、その修正を反 映させていくとますますぼけていくものだ。だから、一番大事なことだけ伝えて自由に作ってもらう。あとは出来上がったシンプルで力強いメッセージが「どう 社会を変えるのか」をプレゼンすればいい。たいていの場合、それはうまくいった。
だから自分でお店を作る時もそうした。
問題は自分にとって何が一番大事か?だった。
会 社員時代の終わり頃、向かいの席に座っていた大先輩は、(我々は学校広告を作っていた)「その学校の最も中核を成す特徴は、その学校ができる以前に、創立 者が様々な道がある中でわざわざ学校を作るという道を選んだきっかけの中に潜んでいる」と信じていた。だから当時を知る関係者やご本人にインタヴューを重 ねて、それらしき仮説を見つけると、現在教壇に立つ先生たちに「最も教育成果があがったと思うご自身の経験」をインタヴューして、それらを重ね合わせてみ ると、創立時の思いが何十年たった今でも脈々と学校の中に生きているのを発見して、学校の方も我々もびっくりする。
そしてそういうシーンに私たちは本当に何度も何度も立ち会った。
では自分にとってのそれは何か?
喫茶店が自分の未来の可能性のひとつとしてカタチになったのは多分予備校時代のころだと思う。
高 校は地元釧路の進学校で「元神童」たちがわんさか集まっていて、自分などは中の下が精一杯なんだと思ったし、中学時代部長までつとめた剣道を続けようと剣 道部に入ったら、世の中には化け物みたいに強い人がいっぱいいるのだと知った。 音楽が好きで作曲なんかもしていたが、一つ上に、後にZiggyのドラマーになる大山さんがいたり、同学年にMINKSでプロデビューした岡田ヨシアキく んなんかがいて、段違いの才能を感じた。
案の定大学受験にも失敗して、札幌の予備校に入った。
寮に入って、よく深夜にヘッドフォンでラジオを聴いていた。さだまさしさんの「案山子」がかかって聴くともなしに聴いていたらふいに涙が出てきて止まらなくなった。
小学生の時、友だちの家でお姉さんのものだというベイ・シティ・ローラーズのレコードを聴いた時。
中学生の時、はじめて買ってもらったシステムコンポでエアチェックしたFM放送の甲斐バンド・ライブを聴いた時。
音楽はいつもふいに心を激しく揺さぶる。
どんな人生になるにせよ、ずっと音楽と一緒にいようと思った。
その時ふと頭に浮かんだのが、喫茶店を経営して好きな音楽をかけて過ごすという日々だった。
むろん、甘っちょろい幻想だ。現実になるとも思っていなかった。
でもなんとなく自分らしいかも、と思って親しい友人にはこっそり話した。
そ の後、大事な出会いがあったり、会社での仕事を通じて学んだこともたくさんあって、頭にふと浮かんだ、好きな音楽が鳴っているだけの喫茶店は、「路地裏」 という骨太のコンセプトを得て25年もかけて大きく成長して今の形になった。しかし間違いなく「音楽が鳴っている」ことが一番重要で、だから一目惚れで 買ったこのタンノイのグリニッジというスピーカーこそがこの店の姿を決めるべきキー・フレームだと思ったのだ。
愛機グリニッジは、今日も快調にハンク・モブレイのジャズを鳴らしている。25年前思い描いた音とはずいぶん違うけど、きっとずっとその時々のカフェジリオの音を鳴らし続けてくれるだろう。それができるだけ長く続くといいと思う。
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