2013年9月24日火曜日

「粗挽き、ネルドリップ」ってうまいのか

先日お客様に「粗挽きで」と言われて戸惑ってしまった。
三つの修行元ではどこでも、どんな器具でも挽き目は同じだったので、意識に上ることはなく、挽き目にいろいろあるということを忘れてしまいがちなのだ。


一般には、サイフォンは細挽き、ドリップは中挽き、パーコレーターが粗挽きということになっている。

パーコレーターを家で使っているという人が今どのくらいいらっしゃるかわからないが、かなりの少数派といっていいだろう。
フレンチプレスで目が詰まるのを嫌がって粗挽きにする人もいると聞く。

基本的なことから言えば、珈琲は焙煎によって豆内に出来た7ミクロン程度の孔に生成した800種類の化学物質を湯の力でこそげ落として飲む飲料である。
グラインドは、その孔を露出させる工程なのだ。

だから粗挽きにすればとうぜん露出する孔の数が減り、「薄い」珈琲になる。そしてその薄さというのは抽出不十分による「薄さ」であって、飲み口のテクスチャーを調整するために湯で薄めるのとは根本的に意味合いが異なっている。

それでもなお、というお好みについて特に申し上げることはない。

冒頭に書いたように、サイフォンの創始メーカーである珈琲サイフォン社をはじめ、僕がコーヒーを習ったお店ではどこも、どの入れ方でもすべて中細挽きを採用している。
一番良く味が出るからである。
サイフォンを細挽きで、というのはミルメーカーの指定であって、器具メーカーはそのような指定はしていないのだ。
それにどんな器具を使っても巷間言われるような目詰まりなど起きたことはない。

また上海では、粗挽きの豆を倍量使って、抽出最初期のコーヒー液を飲むという方法があるそうで、試してはみたが、まあ濃いコーヒーだ。苦さに塗りつぶされて独特の風味があるのかどうかわからなかった。

と、いうようなことを知ってからよく思い出すのは、たぶん缶コーヒーのCMの「粗挽きネルドリップ」というキャッチコピーで、なんとなく「粗挽き」って通のやり方なんだな、と思っていた。
もし、そんなイメージだけで「粗挽き」を愛用している人がいたとしたら広告も罪が深い。

2013年9月13日金曜日

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2013年9月11日水曜日

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2013年9月7日土曜日

新しい生存戦略〜引退する宮崎駿氏に捧ぐ(感謝を込めて)

珈琲にはカフェインという興奮剤が入っていて、だから夜飲むと寝られなくなる。
人間だから夜寝られない程度で済むが、虫などが樹液を吸ったり実をがぶりとやると死に至る。

そんなモノを自分の体で精製している珈琲の木自体も無事ではすまない。
樹木としては異常に寿命が短く、伸長できる高さの限界も低い。

しかしそのカフェインを含んだ実は、体の大きな哺乳類には精神の興奮剤として機能するがゆえに、好んで食べられ、絶対に消化されない非水溶性の繊維に包まれた種子は、その実を食べた動物によって運ばれ徐々にニッチを拡げていく。

これは個々の寿命や成長を犠牲にして種族全体の維持、拡張を優先する生存戦略なのだ。


彼らの意図した生存戦略とは違う形で、人間はこれを栽培し、カフェインの恩恵を世界中で享受している。
珈琲がヨーロッパ全土に広がる前、彼の地では、教育を受けて世界の未来を拓くべき支配階級の人々が昼間からワインやビールなどを飲み、朦朧として日々を過ごしていた。
珈琲が広まると、論理的思考の時間帯は飛躍的に増え、この流れは民衆にも広まった。
19世紀以降の急速な人類の進歩にカフェインの果たした役割は大きい。


こうした流れを鑑みるに、市民社会に遍く文明を浸透させた功労者カフェインを珈琲から取り去ってデカフェなんかを作り出すに至った現代は、まさに文明の袋小路に入ったのだと思わざるを得ない。
弱い動物には毒だが、強い動物の精神を拡張するという夢の様な機能を以ってある種の植物の生存戦略を支えたこのカフェインが、毒として作用するようになったと考えれば、それは人類が生物学的にも弱体化していることのサインではないかと、僕はちょっとした恐怖感すら覚える。


宮崎駿氏は引退会見で自らのキャリアを総括し、「子どもたちに、この世は生きるに値するんだと伝えるのが仕事の根幹になければいけないと思ってやってきた。それは今も変わっていません」と語った。
この世は間違いなく、生きるに値する素晴らしいものであふれている。

光と風。
物語と鏡合わせの真実。
挫折と愛。

しかし、この世は生きるに値すると、誰かが伝えてあげなければならないほど生きにくい、ということでもあるのだ。

マット・リドレーの「繁栄」を読めば、確かに人類は進歩の道の上にあり、現代はかつてない繁栄の時代であることはわかる。
しかし、集団的生活を送る生き物の多くは、勢力が弱い時は団結して外敵にあたるが、勢力が強くなれば、集団内での競争を激しくしてより優秀な遺伝子を残そうとするものだ。
これほどに密集して生きる現代の人間が、どんなステージにあるかは明らかだ。

強者と弱者、美と醜、賢と愚。
僕らの遺伝子はストレートな二分法を要求するのに、もはや袋小路に入った感さえある成熟した文明の中で育った僕らのココロは、それぞれが自分らしくありたい、という欲求を抑えることはできない。
この葛藤が我々の「生きにくさ」の正体ではないか。

だから誰かが「この世は生きるに値する」と教えてあげなくてはならないのだ。
今やこのメッセージが必要なのは子どもばかりではない。

歌で、
物語で、
教育で、
政策で、
そしてせいいっぱいの愛で、
新しい時代の「生存戦略」を描いていけるといいと思う。

2013年9月4日水曜日

昨日と同じように生きるのは難しい

お店用に引いている固定電話は、東日本大震災で結局4〜5日はダウンしたauひかり電話を見事にバックアップしてくれた。
だから、しきりにNTTの代理店が電話してきて、ひかり電話への切り替えを薦めてもすべてお断りして、頑なに固定電話を維持している。

ところが、最近この固定電話に、新しいプランを作って安くしたのでそちらのプランに切り替えて欲しいという営業電話が頻繁にかかってくるようになった。
「同じNTTのプランですからいいですよね、安くなるんだし」と言うのだがちっとも良くない。


ガス料金だって、水道料金だって、電気代だって、値上げをする時は報道で知らされるだけで勝手に値上げして請求してくるのに、電話とかインターネットに限っては値下げをする時に、わざわざ電話をしてきて何らかの契約が必要だっていうのが、そもそもキモチワルイ。
そう思いませんか。

だから僕はそういう話に耳を傾けない。
プランを切り替えたことで生じた誰かの契約金は、商品のイノベーションの結果ではない。
無から金を生み出した「無理」は、必ず廻り回って、僕ら自身に返ってくる。
アベノミクスが生み出した円安と株高が、僕らの生活を支える必需品たちの悉くの値上げに姿を変えて返って来たように。


我々は昨日と同じように生きるのが難しい生き物だ。
いつも何らかの変化を求めている。
良くなっていない、のは悪くなっているのと同じなのだ。
そのようにして積もり積もった「無理」は、定期的に我々の社会を戦争や大不況などといった思いもかけない大きな怪物に姿を変えて襲い、いくつかの文明をまるごと葬ってきた。

僕はそのような企みに加担したくない。
無理筋を通して、自分以外の何かになりたくはない。
なるべく昨日と同じ明日が来るように、ありったけの情熱で「自分自身」であり続けたい。
だから、少しでも昨日より美味しい珈琲ができるよう精進をするのだし、その精進なくしては昨日来てくださったお客様も今日来ていただけるとは限らないのだ。

昨日と同じように生きるのは難しいが、そのための努力は、すべてが自分に向いているぶん「嘘」の入り込む余地がないところがとてもいいと思う。