2015年6月6日土曜日

朝見上げる空模様に命のことを思う時

昨日の記事に、
お気に入りの雨具を買ったくらいで憂鬱な日を楽しく過ごすことができる現代に僕らは生きている
と書いたら、「農家にとっては、天候は今も気の持ちようなどではどうしようもないものですよ」とご指摘をいただいた。
まことにその通りだと僕も思う。
路地裏に建てたカフェの売上も、深刻と言っていいほど天候の影響を受ける。

そういえば、東京で営業の仕事をしていた頃、お客様との挨拶に天候の話などしたことがなかった。
それが会社を辞めて郷里の北海道に帰り路地裏にカフェを構えたら、毎日交わすご近所さんとも、馴染みの常連さんとでも、顔をあわせれば挨拶の言葉としてひとしきり天候の話に花が咲くようになった。

最初にうちの常連さんになってくださったのは、先ごろ亡くなった町村元衆議院議長のお父様で北海道知事を三期務めた金吾さんの秘書だった方で、現在はもう百歳を超えられたはずだがご健在である。

今年101歳になる女性のかたも、もう何年も毎週欠かさず水曜日にうちのケーキを大量に買って行かれる。今やこれが唯一の楽しみだというんだから気が抜けない。
そのような人たちと天気のお話をしていると、天候というのは単なる挨拶の言葉ではなく、本当に命にかかわる重大事なのだと気付く。

そんな日々を過ごしていると、朝起きて見上げる空模様がとても大きな意味を持っているものに思えてくる。
晴れか雨かだけでなく、気温の変化や風、雷、例年との差異など気にかけて情報を追うようになった。
そしてそうなってみると、朝ゴミ出しの時にお隣さんと交わす何気ない「今日はいい天気ですね」の言葉が、お互いの命を気遣い合う言葉に聞こえてくるようになった。
子どもの頃から言われ続けた「挨拶は大事ですよ」という教えの意味がすっと心の中に入り込んでくる瞬間だ。

もしかしたらコミュニティの絆が薄くなったり、家族の形が小さくなることで僕らの生活が失ったものは意外に大きいのかもしれないと、ふと思った。

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