2013年6月21日金曜日

ある後悔の記憶

このカフェをはじめるまで働いていた会社で、私は専門学校の進学情報誌を作っていた。
その頃の同僚から、私が担当していたある学校の経営者について覚えていることがあれば教えてほしいと電話があった。
該当の情報が載っていそうな資料の在処を伝えて電話を切った。

私には、その学校との間に未だ消えぬ後悔の念があり、しばし頭の中に当時のことが浮かんでは消えた。


その学校で、私は経営者サイドから、変革を拒む現場教員を説得して教育機関をとりまく厳しい環境を認識させて欲しいと要望されていた。

事実、高等教育機関に入学する18歳の人口は減り続けていた。
大学に入学しやすくなるため、「大学に行けなかったから」専門学校に入学してくるという人はほとんどいなくなっていた。

経営サイドとしては、激化したライバル専門学校との競争に勝ち抜くために、他校にはない新しい商品=学科を生み出して競争力を強めたいと思うのは当然だ。
しかし、教育に専心してきて、今までの教育成果に誇りを持つ教員の皆さんは、そういう迎合的な商法には否定的だった。

それに、「大学に行けなかったから」な人たちのかわりに現れたのは、「もう勉強したくないから」という人たちで、こういう人たちはむしろ「訓練機関」である専門学校でこそドロップアウトしてしまう人たちなのだ。
当然職業教育機関である専門学校としては、その仕事に就くための技術が欲しいと思っている人たちに入学して欲しい。
今までの質実な教育方法にこだわる教員の皆さんのお気持ちも大変よくわかるのだ。


必要なのは説得ではなくお互いの「理解」であるとわかっていた。

教育の品質を置き去りにした学校改革なんて絵に描いた餅だ。
餅なら捨てれば済むが青春の貴重な時間を差し出させる教育機関ではそれは許されない。

経営を置き去りにした教育現場もまた絵に描いた餅だ。
自分たちの磨いてきた教育スキルを適切な人たちに届けるための努力をどうして他人に任せるのか。

でもその学校で、私はどうしてもそれを言うことができなかった。


社内ではどちらかというと温和なキャラで通していたが、現場での私は短気な営業マンで、学校では相手が理事長であろうとも、教育の品質を軽視した広報プランを指示されると本気で噛み付いてきた。
そうして喧嘩をしてきたお客様には、皆さん今でもあたたかくご親交いただいている。

たぶん、その学校では心からの信頼を得ていなかったのだと思うし、その学校の教育現場の質実さに心からの共感を持てていなかったのだと思う。


そんな時、経営サイドから大きな広報プランの発注があった。
今にして思えば断るべきだったのだと思う。

でも私は曖昧な気持ちのままその仕事を受けて、現場の責任者の方と打ち合わせを始めた。
現場の協力を得られないままどんどん捩じれていく事態。

それでも私はその仕事をやって15年目。
収束のイメージを持ててもいたから、ひとつひとつレンガを積むようにゴールを目指した。
現場の責任者の方の心に大きなダメージを与え続けていたのに気付かないまま。


ある日、責任者の方が倒れたと連絡が入った。脳梗塞だった。
「自分のせいだ」と思った。
見舞いには来るなと言われた。
私は、自分に出来ることをするしかなく、仕事の納品に向けてまたレンガを積みはじめた。

なんとか期日どおりに納品を果たして、電話もせずに学校に行った。
手術が成功して学校に復帰なさった責任者の方がロビーにいらした。
深く頭を下げることしかできなかった。
何と言えばよかったのか。

「あなたのせいじゃありませんよ」と言っては下さったが、肩の荷は降りなかった。


だって、そこには絶対にいくばくかの責任があって、しかも学校の人間でない私にはその責任を取ることはできないのだ。

その仕事を離れて何年もたった今でも、その方には本当に申し訳ないことをしたと思っている。
忘れるつもりはない。
責任を取れないことの重さごと、ずっと憶えていようと思う。
それだって、僕の大切な一部なのだから。

2013年6月16日日曜日

父の日に思う、父のこと。

今日は父の日なので、父のことを記そうと思う。

父は大学で体育を教えていた人だった。
だから運動音痴の僕のことがきっととても歯痒かったろうと思う。

小学生の時、足も遅かったし、持久力なんか欠片もなかったから、校内のマラソン大会ではいつも限りなく最下位に近かった。

そんな僕に、父は毎朝一緒に走ろうと言ってくれて、お酒を飲んだ翌日なんか辛かっただろうけど、毎朝毎朝ランニングに付き合ってくれた。

父は教師であった。
だからただ走ったりはしない。
走り方を教えながら走ってくれたのだ。

父はどんなときも問題をワンイシューに変換して説明するのが上手かった。

「走る時のエネルギーは太腿が上がる角度が作る」

この時教わったこの言葉は、足を速く動かすことを支配する「原理」を表現するものとして、その後僕が社会で働く中でぶつかったいくつもの問題を考えるとき、いつも頭に浮かんだ。

正しい理屈には結果をもたらす力がある。
この年僕は、マラソン大会で上位40%くらいに入る「大躍進」だった。
あまりに速くゴールラインにたどり着いたので、応援に来てくれた家族はあやうく僕の姿を見逃すところだった、という。

スキーも縄跳びも野球も技術ではなく、それが「重力との戦い」であるという視点から語られた。


「その事象を支配しているたったひとつの原理を探す習慣」、が父が僕に長い時間をかけて教えてくれたものだと思う。

子どもだからと思わずに大切なことを伝えてくれようとしたことに今ひたすらに感謝している。
僕は僕の社会経験でこの習慣を鍛えて来たつもりだ。

そして僕にも今は父と呼んでくれる娘がいる。
この宝物を娘にきちんと伝えていくことが父への恩返しだと思う。

2013年6月9日日曜日

「ナカナオリ」の歌

 ずっと以前、「ナカナオリ」という曲を書いた。

同じ職場の同僚と、ささいなことで仲違いして、一年近く最低限の会話しか交わさなかったことがあって。
一年もたってからやっと冷静になれて、自分が悪かったと気付いた。
仲違いの気持ちの裏で、自己弁護をしたくて相手を責めていたのだと気付いたのだ。

最低だと思った。
その時の気持ちを書いた歌だ。


先日、幼い頃長く住んだ釧路時代に、近所に住んでいた幼なじみが、突然お店に訪ね​てきてくれて35年ぶりの再会を果たした。

親同士が懇意だった我​々は両家の(たぶん)母親の計画で、小学校の夏休みにふたりっきりで近所にあった​釧路市青少年科学館に行った。

幼なじみは女の子だったし、僕らはまだ小学校三年生で、最初てれくさくて道幅いっぱいに離れて歩いて​いた。
でもプラネタリウムを見たり、いろんな実験を一緒にやったりで、帰り道気がつくと二人で大笑いしながら歩いてい​た。

迎えに出てきた母親たちが「ずいぶん仲良くなったのね」と言ったのを聞​いて我に返った僕はそれから彼女のことを避けるようになってしま​い、そのことがずっと心に刺さったトゲのようにチクチクしていたのだ​。

決して忘れた事のない、後悔の記憶。


でも35年ぶりにあった彼女は、そんなことまったく憶えていないかのような、昔のまんまの笑顔だった。
たぶん本当に憶えていなかった、いや気付いてすらいなかったのだと思う。
だから彼女とは「仲直り」する必要はなかった。
ただ旧交を温めればよかった。

でも僕には、たとえ彼女がそのことを憶えていなくても「その頃の自分」とは仲直りする必要があったのだ。
だって35年間感じてきた胸の痛みは確かに僕のものだったのだから。


結局のところ、仲直りというのは、過去の自分をありのままに認めることなのではないだろうか。
過去を変える事はできないというが、そんなことはない。

誰だって自分の行動の記憶は大なり小なり美化されているし、正当化されているものだ。後付けの理屈だって付いているだろう。
誰かとの仲違いがあったとして、美化や正当化の理屈のすべてを剥ぎ取って、自分のしたことと向き合ってみたとき、自分とそして誰かとの本当の意味での仲直りが出来る。
そんな気がする。


18年も在籍した会社で、僕は九ヶ月だけ部下を持っていた時期がある。
それは長い間念願していた職種で、自分の培ってきたものをメンバーたちに伝えながら、現場の情報を「適切に」経営陣に伝えることで事業の方向性に影響を与えられるポジションだった。

最初の半年ほどはそこそこ順調だったが、最初の部下の査定で、たぶん僕は部下たちの考えている事をうまく汲み取ってあげる事ができなかったのだろう。
不満は増殖して波及した。
結果チームの業績は目に見えて落ちてきて、僕はお役御免となった。

ずっと後になって、当時の上司に「あのままやらせないほうがいいと思った」と聞いた。その時はもうずいぶん気持ちも落ち着いていて冷静に聞きはしたが、納得はいかなかった。
その後も、同じ事業部でそれなりにがんばってみようと思ったが、どこか心に引っかかるものがあって、完全に昔のままの情熱で仕事にあたることは出来なかった。


本当に納得がいったのはこのCafeを開いてからのことだ。
ここは夫婦二人でやっているわけだから、経営判断だって全部二人で下していく。
何年も一緒に暮らしている夫婦でこんなに考え方が違うのか!と毎日のように驚く日々だ。
ましてや会社でたまたま席を並べた年齢も全然違う部下たちとは、感じ方や好ましいやり方も全然違うはずだ。

なのに僕は彼らの前で得意になって昔の成功談を繰り返していたのではなかったか。
話し合おうと設定した場でも、上から目線で譲歩ラインを提示しただけではなかったか。

・・悔しいなあ。
と心から思った。涙も出た。

その時僕は、その頃の自分と「仲直り」をしたのだと思う。


その当時のメンバーたちも各方面で活躍していると聞く。心から応援している。がんばって欲しい。僕も負けずにがんばる。



いろんなものを経てきた今の自分で、新しい「ナカナオリ」という曲を書いてみたいと今思っている。自分との「ナカナオリ」の歌を。

(旧Cafe GIGLIO Blogから、加筆修正して転載)

2013年6月4日火曜日

珈琲は黒いダイヤなんかじゃない

コーヒーの原産地であるエチオピア・イエメンの豆を「モカ」という。
これは豆の積出港だったイエメンのモカ港に由来する。
海外で人気があった有田焼が、積み出された港が伊万里だったため「Imari=伊万里」と呼ばれる式のあれだ。

コーヒーが飲料として世に出てきた17世紀当時、アラビア半島はイギリス帝国の支配下にあり、モカ・コーヒーの貿易権は当然イギリスが独占していて、かなり高額の関税をかけていた。
その当時はまだ、エチオピア近辺の東アフリカとイエメンでしかコーヒーは栽培できなかったのだ。

ヨーロッパ列強も自らの植民地でコーヒー栽培を試みるが、なかなかうまくいかない。
最初に成功を収めたのはオランダがセイロンやジャワ島に苗木を持ち込んで栽培したものだ。

オランダ東インド会社は、この東南アジアのコーヒー豆を収穫後すべてをモカ港に一度集積して、その時のエチオピア豆よりもいくぶんか安い値を付けて勝負に出た。
いいかげんイギリスの独善的な関税政策にアタマに来ていた市場は、この安価なオランダの豆を歓迎し、ヨーロッパ全域を席巻することになる。

商売にならなくなったイギリスはモカ・コーヒーに高い関税をかけるのをあきらめ、あらたな儲け口として中国からの「茶」の輸入に力を入れるようになり、紅茶の王国イギリスへの道を歩み始める、という訳だ。


その後ジャワ・コーヒーは隆盛を極め、現在もプログラミング言語の「Java」(もちろんジャワのことです)のアイコンにコーヒー豆が図案化されているくらいだ。
しかし、好事魔多し。

残念ながらセイロンはコーヒーさび病という天敵で全滅、ジャワも大きな被害を受け、両産地とも茶の栽培に舵を切っていくことになる。



中国茶の輸入に乗り出した英国は、コーヒーにおけるオランダの成功を真似しようと、なんとか自分の植民地のインドあたりで茶の栽培ができないかと試行錯誤をはじめた。
しかし、中国茶はインドの気候では栽培ができない。

そんなある日、英国東インド会社の少佐(この役職名からわかるように、東インド会社は植民地の治安維持軍の役割を担っていた)がインドの山奥で自生している新種の茶の木を発見!
これをインドで栽培して、英国の覇権は再び確固たるものとなっていく。
当時ヨーロッパは王宮を中心に中国風の生活をすること(シノワズリーといいます)が流行していて、茶は上流階級の必需品だったのだ。

後は歴史の繰り返し。
茶の関税はまた上がり、反発したアメリカ大陸の植民地で「ボストン茶会事件」が起こり、アメリカの独立へと繋がっていった。


そして時代は変わり、グローバリゼーションが進んだこの世界でも同じように歴史は繰り返されているように見える。
しかし、現代のありようを見ていると、帝国主義の時代のほうが正々堂々としているように思えてならない。
少なくともあの時代、国の未来を託すべき作物は、自らの力で発見しようと努力されてきたし、植民地化という方法は必ずしもフェアとはいえないが、自国の領土として統治はしているわけだ。

翻って現代をみると、アメリカやEUは国内の農業に国家として豊富な補助金を拠出し、かつての植民地がいくら良い生産品を作っても価格競争力を持てないようにしている。
しかたなく、国際的な巨大資本に言い値で売るためどんどん価格は下がっていく。

このどこまでいっても開発途上国に不利な枠組みを是正するため、ウルグアイ・ラウンドで農業補助金の撤廃が採択されたが、先進国組は(と言うより、食品コングロマリットが)これを不服とし、2003年メキシコのWTO閣僚会議で、まったく逆の方向に議論の舵を切っていく。

この大規模な国際会議に、アフリカでは代表団を三名しか送れない小国もある中、EUは650名の大規模な代表団を組んで会議に乗り込み、たくさんの分科会を同時に走らせて、充分な対話を行わないまま、会議を押し切ろうとした。
アフリカ勢はこれに反発。
対話は暗礁に乗り上げたまま、現在も搾取は続いている。

机の上で計算されたり、会議室で繰り広げられる深謀遠慮から生まれる抽象的な勝利や成功はもういい。
コーヒーはコーヒーであって、黒いダイヤではないのだ。

品質の高いコーヒー豆を生産して、技を尽くして焙煎して、丁寧に抽出する。
そうしてできた一杯のコーヒーへの称賛や正当な報酬が当たり前に得られる世界を、半ばあきらめながら、それでも心の何処かに希望を抱いて、僕は今日もこのコーヒーを丁寧に丁寧に一杯ずつ淹れるのだ。