ずっと以前、「ナカナオリ」という曲を書いた。
同じ職場の同僚と、ささいなことで仲違いして、一年近く最低限の会話しか交わさなかったことがあって。
一年もたってからやっと冷静になれて、自分が悪かったと気付いた。
仲違いの気持ちの裏で、自己弁護をしたくて相手を責めていたのだと気付いたのだ。
最低だと思った。
その時の気持ちを書いた歌だ。
先日、幼い頃長く住んだ釧路時代に、近所に住んでいた幼なじみが、突然お店に訪ねてきてくれて35年ぶりの再会を果たした。
親同士が懇意だった我々は両家の(たぶん)母親の計画で、小学校の夏休みにふたりっきりで近所にあった釧路市青少年科学館に行った。
幼なじみは女の子だったし、僕らはまだ小学校三年生で、最初てれくさくて道幅いっぱいに離れて歩いていた。
でもプラネタリウムを見たり、いろんな実験を一緒にやったりで、帰り道気がつくと二人で大笑いしながら歩いていた。
迎えに出てきた母親たちが「ずいぶん仲良くなったのね」と言ったのを聞いて我に返った僕はそれから彼女のことを避けるようになってしまい、そのことがずっと心に刺さったトゲのようにチクチクしていたのだ。
決して忘れた事のない、後悔の記憶。
でも35年ぶりにあった彼女は、そんなことまったく憶えていないかのような、昔のまんまの笑顔だった。
たぶん本当に憶えていなかった、いや気付いてすらいなかったのだと思う。
だから彼女とは「仲直り」する必要はなかった。
ただ旧交を温めればよかった。
でも僕には、たとえ彼女がそのことを憶えていなくても「その頃の自分」とは仲直りする必要があったのだ。
だって35年間感じてきた胸の痛みは確かに僕のものだったのだから。
結局のところ、仲直りというのは、過去の自分をありのままに認めることなのではないだろうか。
過去を変える事はできないというが、そんなことはない。
誰だって自分の行動の記憶は大なり小なり美化されているし、正当化されているものだ。後付けの理屈だって付いているだろう。
誰かとの仲違いがあったとして、美化や正当化の理屈のすべてを剥ぎ取って、自分のしたことと向き合ってみたとき、自分とそして誰かとの本当の意味での仲直りが出来る。
そんな気がする。
18年も在籍した会社で、僕は九ヶ月だけ部下を持っていた時期がある。
それは長い間念願していた職種で、自分の培ってきたものをメンバーたちに伝えながら、現場の情報を「適切に」経営陣に伝えることで事業の方向性に影響を与えられるポジションだった。
最初の半年ほどはそこそこ順調だったが、最初の部下の査定で、たぶん僕は部下たちの考えている事をうまく汲み取ってあげる事ができなかったのだろう。
不満は増殖して波及した。
結果チームの業績は目に見えて落ちてきて、僕はお役御免となった。
ずっと後になって、当時の上司に「あのままやらせないほうがいいと思った」と聞いた。その時はもうずいぶん気持ちも落ち着いていて冷静に聞きはしたが、納得はいかなかった。
その後も、同じ事業部でそれなりにがんばってみようと思ったが、どこか心に引っかかるものがあって、完全に昔のままの情熱で仕事にあたることは出来なかった。
本当に納得がいったのはこのCafeを開いてからのことだ。
ここは夫婦二人でやっているわけだから、経営判断だって全部二人で下していく。
何年も一緒に暮らしている夫婦でこんなに考え方が違うのか!と毎日のように驚く日々だ。
ましてや会社でたまたま席を並べた年齢も全然違う部下たちとは、感じ方や好ましいやり方も全然違うはずだ。
なのに僕は彼らの前で得意になって昔の成功談を繰り返していたのではなかったか。
話し合おうと設定した場でも、上から目線で譲歩ラインを提示しただけではなかったか。
・・悔しいなあ。
と心から思った。涙も出た。
その時僕は、その頃の自分と「仲直り」をしたのだと思う。
その当時のメンバーたちも各方面で活躍していると聞く。心から応援している。がんばって欲しい。僕も負けずにがんばる。
いろんなものを経てきた今の自分で、新しい「ナカナオリ」という曲を書いてみたいと今思っている。自分との「ナカナオリ」の歌を。
(旧Cafe GIGLIO Blogから、加筆修正して転載)
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