2014年2月4日火曜日

「ある精肉店のはなし」に思うこと

朝、新聞を読んでいたら、牛の屠殺から解体、販売までを一手に行う精肉店の映画を札幌で上映する、とコラムに書いてあった。

せめて映画のタイトルくらいは書いて欲しかったが、ネットで調べるとすぐわかった。
「ある精肉店のはなし」という映画で、今日から「蠍座」というちょっとかわった名前の映画館で上映が始まると書いてあった。

これはぜひ観たいが、時間がままならぬ自営業者のこと、上映時間を調べようと思ったらこの蠍座にはホームページがない!
しかたなくまた新聞に戻って調べたら、昼間にしかやっていない。

むむ。
やむなく断念し、DVD化を願うことにする。


ここまでしてこの映画に関心を持ったのにはわけがある。

僕らがやっているカフェジリオという店では、余市の滝下農園さんの卵を使わせていただいている。
気さくなご主人の人柄に触れたくて、一年に一度はご挨拶に伺う。

自然な状態で飼われた鶏たち。
自家製の野菜だけで育てられている。
大きな葉を持つ野菜が好物で、小屋に置くと瞬く間に無くなる。

大事に育てているのだ。
でも、うちの鶏の唐揚げ美味しいよ、と言う。
そしてこのセリフ、不思議なほど違和感がないのだ。
これって何なんだろう。

よくこの手の映画のアオリに使われる、「いのちをいただく」みたいな、むりやり言葉を当ててる感じや、「生きることは殺すこと」みたいなレトリカルな気取りはそこにはなかった。
この不思議な「自然さ」がどこからくるのか、もしかしたらこの映画にヒントがあるかもしれないと思ったのだ。


先日、米駐日大使が太地町のイルカ漁の非人道性を懸念しているとつぶやいた。

我が国の伝統と文化なのだよと反論したり、アメリカもバッファロー絶滅させたじゃないかと言ってみたりするのはなんか不毛だと思った。

また国内でも、このような漁のやり方は、漁ではなく虐待であるとして大使の意見に賛意を示す人もいる。
でも漁のような行為に虐待という言葉を持ち出すことにも、なんとなく違和感を覚える。


そうこうしていると、今度は中国で漢方薬を作るために飼育されているヒグマから、生きたまま胆汁を抜き取るのが動物虐待で、ぜひやめてもらうように習近平主席に陳情するから署名運動に協力してほしいと連絡があった。
やはりイルカ漁の件と同じように、虐待という言葉が文脈にフィットしていない気がした。

アメリカ人も日本人も見慣れないものに触れて過剰反応しているのではないか、などという気はない。
また、熊の胆汁を取り出すことに反対の人は、イルカ漁にも反対だろうと思うから、別段ふたつのエピソードは矛盾したものではない。

しかし、このふたつの案件が前後して起こったことには偶然を超えた何かを感じる。
この連想が適切かどうかはわからないが、アニメーション作品でありながら、近年論壇で広く引用されるようになった「魔法少女まどか☆マギカ」で、中盤のハイライトである美樹さやかの死に打ちのめされ、元凶であるキュウべえを責める鹿目まどかに「家畜を飼うことに残虐性を感じない君たちが魔法少女の扱いを非道いというのは全く理解できない」と、宇宙生命体であるインキュベーターが言っていたことが思い出された。
なるほど、脚本家虚淵玄は、このセリフのために、感情を持たない第三者インキュベーターを用意したのだな。


しかし我々としては、鹿目まどかの言い分に共感しないわけにはいかない。
その理由は脳の構造そのものにもある。
我々哺乳類の脳には「ミラー・ニューロン」という特殊な神経組織がビルト・インされている。

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
マルコ イアコボーニ Marco Iacoboni
早川書房
売り上げランキング: 42,552

例えば虐待されている猿など見れば、その視覚情報からわれわれ自身も同じ部位を痛めた時に発火する神経組織が発火するという仕組みになっている。
脳の深いところに仕組まれたシンパシーの仕組みが僕らの思考を縛っているのだ。
網の中で血を流すイルカたち。
拘束衣を着せられ胆汁を採られる熊。
絞められた鶏に、解体される牛。
彼らの死の姿は、僕等の脳に強い物理的な衝撃を与えるのだ。

だからこの種の問題を、純粋に論理的な言葉というツールで議論することにはちょっと無理があるのではないか、と僕は思っている。

となれば完全に公平な立場なんてものはありようがない。
ない以上、様々な立場からの意見を伺って、それら全部を飲み込んでただ生きていくしかない。
そう思っている。


人の都合で獣を殺す案件に「虐待」の語を用いる人たちは、概ね、家畜動物の屠殺を残虐性のある方法で行うことを禁じている法律の存在を持ち出す。
しかし、少なくとも鶏を絞める行為は、長年の経験から洗練されたスピーディな作業になっていても「安楽」な死ではない。
体の大きな動物なるほど、やむなく残る屠殺の残虐性は大きなものになるだろう。

多くの人は実際の屠殺の現場を見たことはなく、また屠殺の部分だけを切り出した映像が、正しく屠殺の実態を伝えないことを、ザ・コーヴという映画から学んだばかりだ。
もしかしたらこの「ある精肉店のはなし」も賛否両論を呼ぶのかもしれない。


自分はといえば幸い、今のところ何かの決断を迫られる立場にはいない。
だからといって高みの見物を決め込むつもりもない。
ただ、できるだけ誠実な理解をしたい。
そう思っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿