バレンタインデーが近い。
思えばバレンタインのチョコレートにはほとんど縁のない人生であった。
しかし、こんな僕にも忘れられないチョコレートの思い出がひとつあるのだ。
小学校五年生の時だった。
バレンタインデーのその日、いつもの通り僕はひとつのチョコレートも貰わずに帰宅した。
もはや慣れっこになった軽い失望感とともに部屋でラジオを聴いていると、チャイムが鳴って、母が、ニヤニヤしながら僕を呼びに来て言った。
「女の子が来てるわよ」
何が起きているのかわからないまま、玄関に向かうとそこにはクラスメートの中でも一番可愛い(と僕が思っていた)子が立っていた。
戸惑っている僕に、彼女は小さな袋に入った、ハート型のチョコレートをくれた。
「あの、これ」
「ありがとう」
「じゃあね」
くらいの会話だったと思う。
今思えば、家に送っていくくらいのことをすればいいのに、そんなことも思いつかなかった。
僕はじわじわと実感される、世界が反転していくような幸福感に、完全に自分を見失っていたのだ。
その後のことはここには書かない。
でももし、あの日彼女が僕にチョコレートをくれなかったら、今の自分はここにいる自分とは違う存在になっていたことだけは確かなことだと思う。
もはや現代のバレンタインデーがそのような、一世一代の想いを伝えるイベントでないことは承知している。
チョコレート屋の側も、消費者の物分かりの良さに乗じて、もともと販促イベントであったそれを、よりあからさまに販促色を強いものへとシフトしていった。
ありがたいことに私達のカフェにも、たくさんのお客様がバレンタイン用のチョコレートを買い求めにいらっしゃる。
今年も早い時期からお客様がいらっしゃるが、皆さん今年のデパートのチョコレート売り場はすごいよ、とおっしゃる。
本場の有名ショコラティエがイベントのために来日し、痩せたとはいえまだまだ世界有数のマーケット日本を盛り上げてくれているのだそうだ。
じゃあ今年は勉強のために覗いてみようか、と出かけた。
確かに盛況で、チョコレートはどれも芸術品のように美しかった。
噂には聞いていたが、価格も芸術的だった。
現代のチョコレートとはこういうものか、といくつか買い求め食べてみた。
当たり前の話で恐縮だが、それは小学生の時、恥ずかしさを押し切って家まで来て彼女が渡してくれたチョコレートのような感動を与えてはくれなかった。
そして価格のことを考えるとき、どうしてもあの豪華な箱たちにどのくらいのコストがかかっているのかをつい計算せずにはいられなかった。
この店を出す時に、包材はずいぶん検討したので、オリジナルの箱を作るのにどれほど膨大で法外なコストがかかるのかはよく知っている。
しかもこんな凝った構造の箱であればなおさらだ。
チョコレートは、他の菓子類に較べてどうしても原価が高くなる。
中途半端に高くて、外見もぱっとしない商品を売るのは実に難しいものだ。
外見にも手をかけて、見栄えを良くして、その結果高価になってしまったものならば、売り方がある。
現代社会ではそういう技術はずいぶん進んでいるのだ。
でも僕は、そういう売り方はしたくない。
この店のものなら間違いなく美味しい、という日常的な繋がりの中で作ってきた信頼があれば、そのような小細工はいらないのだ。
箱なら規格品がある。
きちんと原価を計算して、商品の価格を決め、店頭に出す。
それだけでいい。
ブランド、という言葉がある。
デパートに並んでいる名だたるショコラティエのブランドの数々に較べて我々はあまりにも無名だ。
ブランドは、イギリスで牛に押していた焼き印(Burned)に由来する。
あそこの牛なら大丈夫だ、という印のことである。
そういう本質的な意味でのブランドを、僕らはゆっくりゆっくり作ってきたつもりだ。
おかげさまで今年の主力に据えた「生チョコ」は大好評で、すでに生産が追いつかず、バレンタインデーを前にして、すでに品薄である。
ありがたいことです。
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