NHKでやっているドラマ「ロング・グッドバイ」いいですね。
ロバート・アルトマンが撮った映画版もよかったけど、何よりも、換骨奪胎に<意識的>な脚本が本当に素晴らしい。
もちろんマーロウを自分なりに噛み砕いて表現したアルトマン映画主演のエリオット・グールドの演技は、それ自体がかっこよくて素晴らしかったわけだけど、アメリカ人がマーロウ名で演技しているわけだから、猫なんか可愛がらせたぐらいでは所詮変奏曲の域を出ない。
その点、NHKドラマの場合は、どうしたって日本に持ってきた時点で、もうだってマーロウだもんと言い張るわけにはいかないから、その探偵の奇異な行動規範に一定の説明が要る。
ことに本作の場合、テリーとマーロウなら「なぜか気が合う」で済むわけだが、増沢と原田の場合、そうはいかない。
だから脚本はここを丁寧に描写し、結果テリー(原田)の人物像はもしかしたら原作以上に深まったかもしれない。
チャンドラーの描いたマーロウってのは、あくまでも当時の西海岸のスポイルされた空気の中で成立した、いわば<浮世離れした>人物像だったから、翻訳が村上春樹になっただけで人格が変わってしまうような繊細さがあった。
それゆえに、原作と映画の180度違うラストが成立したとも言える。ではNHK版のラストはどうなるか。嫌が上にも期待が高まる。
そんな素晴らしい脚本にも、珈琲屋としてはちょっと残念なところがあった。
マーロウはコーヒーを愛している。
だから、敵が事務所に踏み込んできて銃を向けていても、「コーヒーを飲むか?」と訊く。そしておもむろに豆を挽く。
で、我らが浅野マーロウもコーヒーを挽き、サイフォンで淹れる。
ところが、浅野マーロウがコーヒーにこだわりのある男だと示すファースト・シーンでの淹れ方がおかしい。
最初に湯を沸かすフラスコに珈琲の粉を入れてしまっている。これではトルココーヒーだ。もちろん演出上のわかりやすさから作られたシーンなのだろう。
せっかくだから、このシーンを補うため、サイフォンでの珈琲抽出をこのページで再現しておこう。
まずフラスコに水をいれます。この時、絶対にフラスコの外側が水で濡れていないことを確認して下さい。水滴なんかがついていると加熱した時フラスコが割れます。これ、実はサイフォンを使う時一番重要なことです。
次に上部にセットする漏斗に珈琲の粉を入れます。このKONOの器具はネルの代わりに扱いやすいペーパーを使っていますので挽目はドリップと同じ中細でいいのです。問題は量です。サイフォンは浸漬法で、抽出に使った液はすべてカップに出ますから、粉は少なめにしないといけない。一人分7gくらいでいいです。
これが、ペーパー仕様のフィルターです。ネルは使用後、水につけて冷蔵庫で保存しなくてはなりません。生活の中で現実的に使うにはペーパー式がいいと思います。
さてやっとアルコールランプに着火。ポコポコと底から泡が出てきたら漏斗を挿してください。
挿すとすぐに湯が上に上がってきてコーヒーの粉を浸し始めます。湯がコーヒー層の真ん中を割って山が崩れたら・・
このように竹べらを「縦に」入れて混ぜます。
その時間40秒。
混ぜることと、その時間が正確に40秒であることが、二番目に大切なポイントです。
40秒たって、アルコールランプの火を消すと、抽出された液がフラスコに落ちてきます。
その時、良質の豆を使って適切な時間抽出された液には、このような金色の泡がたっているはずです。
漏斗を抜いて完成です。
タオルでフラスコをしっかり押さえて、漏斗を前後に揺らして外してください。
ね、えらく手間のかかるやり方でしょう。
銃をつきつけられてできるこっちゃないですよ。
だから、やっぱりマーロウはかっこいいんですよね。
2014年4月29日火曜日
2014年4月8日火曜日
本屋さんが一番売りたい本と、僕が買いたい本
エリアフリー化を果たしたradikoが面白くていろんなエリアのFM局をはしごするのが最近の夜の楽しみだが、昨夜はTOKYO FMを聴いていた。
「タイムライン」という番組で、作家の海堂尊さんが、本屋大賞のキャッチコピーが気に入らないと言っていた。
「本屋さんが、一番売りたい本」なんて正面切って言われると、他の本は売りたくないのか、と思い、その無神経なコピーに不愉快な気分になると。
もちろん、一番売りたいのがこれだ、と言ったからといって他のものを売りたくないということにはならない。
ならないけど、「大賞」と言ってるからには本(と同時にその作者)を表彰するわけだから、本屋さんが「売りたい」ほど好きだ、または良書だということなんだろう。
何かを好きだっていう気持ちの程度を修辞するのに「売りたい」なんて言葉を、しかも本を売るのが生業の人たちが言っちゃうっていうのはちょっと身も蓋もなさすぎるんじゃないの、とは僕も思う。
なんでラジオでこんな話題なのかなあ、と思ったら今日が今年の本屋大賞の発表日だったようだ。(「のぼうの城」の和田竜さんが書かれた「村上海賊の娘」が受賞したそうです)
僕は、かねてから本屋大賞の本のセレクトと作家の偏りについては違和感のようなものを感じることが多かった。
それでもノミネート10作品のうち毎年2〜3冊くらいは読んでいたし、とてもいい作品もあった。で、年を追うごとに、いいと思う作品が下位になっていって、ついに今年のノミネート作品リストには一冊も読了本が入らなかった。
本屋大賞は「書店員が選ぶ」と銘打たれている。
だから僕はてっきり、本好きが嵩じて書店員にまでなってしまったマニアな読書家が、そのとっつきにくさから隠れた名作に甘んじている逸品を、読解のヒントとともにご紹介してくれる賞なんだと思っていた。
帯につられて買った2011年の大賞受賞作「謎解きはディナーのあとで」を読んで、自分の解釈が決定的に間違っていたことを知った。
こっちか、と。
つまり本屋大賞というのは、これならどんな人でも間違いなく楽しめますよ、という大衆性の高い作品を紹介して、減り続ける読書人の間口を広げるためのイベントなのだろう。
もちろん多くの人にアピールしうる作品を書くのは簡単なことではない。
それは賞賛すべき才能だ。
だからそれはそれで素晴らしいことだと思う。
ましてや大学生の4割以上がまったく読書をしないという時代だ。このような活動には重要な意味があると思う。
それに書店の経営は難しい、と聞く。
大学生の頃、近所の小さな書店の店主は、雑誌と赤川次郎の売上で他の本の仕入れをするんだと言って、笑っていた。
その店主は、店のサイズに不釣り合いなほど徳間文庫のコーナーを広くとっていて、おかげでその頃の徳間文庫が積極的に収蔵していた日本SFの傑作群に出会うことができたのだ。
そのような店に、当時の赤川次郎のようなキラーコンテンツの供給が止まったらどうなるだろう。
たちまち商売は立ちいかなくなり、僕たちは本と出会う場所を失うことになる。
だから書店の収益性を担保する、話題の新刊を本屋さん自らが作っていくムーブメントを否定することはできないと思う。
しかし、問題もある。そのような活動も行き過ぎれば、結果的に愛書家を書店から遠ざけることになるという点だ。
以前は本屋で、本に「呼ばれる」としかいいようのない経験をよくした。
平台に並んだその本から目が離せない。
めくってみる前から面白いことを確信している。
自分に読まれるべく、そこで待っていた本。
実際、そのようにして出会った本は、生涯忘れられない印象を今も残している。
同じような経験のある人はたくさんいるのではないだろうか。
しかし、本が心に呼びかける声はあまりにも小さく、デリケートだ。
一方、ナントカ賞受賞という勲章はピカピカ光って目に眩しい。
大声で、僕を買ってよ、と叫んでいる。
だから最近、書店では何かの賞を受賞したか、映画の原作になったような本しか目に入らない。
そのような硬直した平台をみるたび、本屋さんが一番売りたい本は、僕が一番買いたい本ではなくなったんだな、と寂しい気分になったりする。
反面、オンラインの書店では「知っている本しか買えない」という弱点を完全に克服して、読書傾向から的確な本をリコメンドできるようなシステムを備えている。
リアル書店のように「本の声を聴く」というようなミラクルはもちろん望めないが、強力な検索機能と圧倒的な在庫量は、我々愛書家の新しい福音になりつつある。
本をたくさん買うのは、ベストセラーだけを買う人ではなく、愛書家である。
実用書の類には目もくれず、魅力的な小説を漁り続ける愛書家たちには「本屋大賞」にリストされる作品は少し物足りないことが多い。
だからそれが「一番売りたい本である」と公言する場所に足を運ぶ機会が少なくなることはある程度やむを得ないような気もする。
もはや愛書家のオンライン書店への流れと、その先にある電子書籍のメインストリーム化は止められないのかもしれない。
書店に本の素晴らしさを教わってきた世代としては寂しいかぎりだが、これも時代の変化ということなのだろう。
「タイムライン」という番組で、作家の海堂尊さんが、本屋大賞のキャッチコピーが気に入らないと言っていた。
「本屋さんが、一番売りたい本」なんて正面切って言われると、他の本は売りたくないのか、と思い、その無神経なコピーに不愉快な気分になると。
もちろん、一番売りたいのがこれだ、と言ったからといって他のものを売りたくないということにはならない。
ならないけど、「大賞」と言ってるからには本(と同時にその作者)を表彰するわけだから、本屋さんが「売りたい」ほど好きだ、または良書だということなんだろう。
何かを好きだっていう気持ちの程度を修辞するのに「売りたい」なんて言葉を、しかも本を売るのが生業の人たちが言っちゃうっていうのはちょっと身も蓋もなさすぎるんじゃないの、とは僕も思う。
なんでラジオでこんな話題なのかなあ、と思ったら今日が今年の本屋大賞の発表日だったようだ。(「のぼうの城」の和田竜さんが書かれた「村上海賊の娘」が受賞したそうです)
僕は、かねてから本屋大賞の本のセレクトと作家の偏りについては違和感のようなものを感じることが多かった。
それでもノミネート10作品のうち毎年2〜3冊くらいは読んでいたし、とてもいい作品もあった。で、年を追うごとに、いいと思う作品が下位になっていって、ついに今年のノミネート作品リストには一冊も読了本が入らなかった。
本屋大賞は「書店員が選ぶ」と銘打たれている。
だから僕はてっきり、本好きが嵩じて書店員にまでなってしまったマニアな読書家が、そのとっつきにくさから隠れた名作に甘んじている逸品を、読解のヒントとともにご紹介してくれる賞なんだと思っていた。
帯につられて買った2011年の大賞受賞作「謎解きはディナーのあとで」を読んで、自分の解釈が決定的に間違っていたことを知った。
こっちか、と。
つまり本屋大賞というのは、これならどんな人でも間違いなく楽しめますよ、という大衆性の高い作品を紹介して、減り続ける読書人の間口を広げるためのイベントなのだろう。
もちろん多くの人にアピールしうる作品を書くのは簡単なことではない。
それは賞賛すべき才能だ。
だからそれはそれで素晴らしいことだと思う。
ましてや大学生の4割以上がまったく読書をしないという時代だ。このような活動には重要な意味があると思う。
それに書店の経営は難しい、と聞く。
大学生の頃、近所の小さな書店の店主は、雑誌と赤川次郎の売上で他の本の仕入れをするんだと言って、笑っていた。
その店主は、店のサイズに不釣り合いなほど徳間文庫のコーナーを広くとっていて、おかげでその頃の徳間文庫が積極的に収蔵していた日本SFの傑作群に出会うことができたのだ。
そのような店に、当時の赤川次郎のようなキラーコンテンツの供給が止まったらどうなるだろう。
たちまち商売は立ちいかなくなり、僕たちは本と出会う場所を失うことになる。
だから書店の収益性を担保する、話題の新刊を本屋さん自らが作っていくムーブメントを否定することはできないと思う。
しかし、問題もある。そのような活動も行き過ぎれば、結果的に愛書家を書店から遠ざけることになるという点だ。
以前は本屋で、本に「呼ばれる」としかいいようのない経験をよくした。
平台に並んだその本から目が離せない。
めくってみる前から面白いことを確信している。
自分に読まれるべく、そこで待っていた本。
実際、そのようにして出会った本は、生涯忘れられない印象を今も残している。
同じような経験のある人はたくさんいるのではないだろうか。
しかし、本が心に呼びかける声はあまりにも小さく、デリケートだ。
一方、ナントカ賞受賞という勲章はピカピカ光って目に眩しい。
大声で、僕を買ってよ、と叫んでいる。
だから最近、書店では何かの賞を受賞したか、映画の原作になったような本しか目に入らない。
そのような硬直した平台をみるたび、本屋さんが一番売りたい本は、僕が一番買いたい本ではなくなったんだな、と寂しい気分になったりする。
反面、オンラインの書店では「知っている本しか買えない」という弱点を完全に克服して、読書傾向から的確な本をリコメンドできるようなシステムを備えている。
リアル書店のように「本の声を聴く」というようなミラクルはもちろん望めないが、強力な検索機能と圧倒的な在庫量は、我々愛書家の新しい福音になりつつある。
本をたくさん買うのは、ベストセラーだけを買う人ではなく、愛書家である。
実用書の類には目もくれず、魅力的な小説を漁り続ける愛書家たちには「本屋大賞」にリストされる作品は少し物足りないことが多い。
だからそれが「一番売りたい本である」と公言する場所に足を運ぶ機会が少なくなることはある程度やむを得ないような気もする。
もはや愛書家のオンライン書店への流れと、その先にある電子書籍のメインストリーム化は止められないのかもしれない。
書店に本の素晴らしさを教わってきた世代としては寂しいかぎりだが、これも時代の変化ということなのだろう。
2014年4月4日金曜日
流動の日々の中に、僕は昔日を固定できる余白を失いたくない
北海道新聞で、金曜朝刊に掲載される「各自核論」というコラムをいつも読んでいる。
今朝の「各自核論」には、ITプロデュース集団「リナックスカフェ」を経営する平川克美さんが不定期に連載している「路地裏の資本主義」の第8回が掲載されていた。
「経済成長の病」という著書を持つ平川さんの論説はいつも地に足がついていて、読む者の心に不要な波風を立てない。その平川さんの喫茶店観に深く頷きながら読む。
平川さんは言う。
僕の経営するカフェジリオでのお客様の平均的な滞在時間は二時間くらいだと思う。
店舗には、雑誌はあまり置かず、詩集や絵本、酵母や発酵食の本、文化や色彩に関する書籍などを置いているが、これらの本に読み耽る人たちがいる。
ある人は持ち込んだ楽譜に熱心に何ごとか書き込んでいる。
町内会の会合や、PTA行事の下打ち合わせをしている人たちもいる。
かかるのはコーヒー代とケーキ代だけ。
どんなにたくさん本を読んでも、長時間の議論をしてもそれは変わらない。
生産性はともかく、<経済性>とは確かに無縁だ。
そして僕の知っている<大学>という場所によく似ている。
この店を設計していた頃、ダイヤ冷ケースという冷蔵ショーケースの会社の社長さんとお会いした。店の図面を見て、顔をしかめた彼は「こんな席数では収益性が悪すぎます。それにこのカウンター。カウンターは時代遅れですよ。そこに座ったお客さんがお店の生産性を削るのです」と言った。
そういう時代なんだとは思う。
平川さんも、町の喫茶店が消えていく理由に、現代人のライフスタイルの変化を挙げて、こう言っている。
喫茶店自身の側もこの生産性至上主義に乗っかって、文化の担い手であることを放棄して、建物を壊して駐車場にしたりしたんだろう。
喫茶店がなくなっていくのも仕方のない成り行きだ。
僕が大学に通っていた1985年から88年の間、もちろん携帯電話はなかったけど、友だちを探すのに困ることはなかった。ある人はサークルのたまり場になっていた大学生協のロビーで、ある人は大学近くの喫茶店で、またはバイト先を覗けばだいたい会うことができた。
居場所があるってそういうことだと思う。
今や大学生も忙しい時代になった。
資格を取ったり、英語の検定を受けたり、長期間にわたる就職活動にも従事しなくてはならない。
本を読んだりコーヒーを飲んだりする時間がなくても仕方がないのかもしれない。
以前勤めていた会社で、今も頑張っている仲間たちも本当に忙しそうにしている。
あちこちの拠点を回って何年も単身赴任している友だちもいる。
出張で北海道に来ても今どきは日帰りなんだそうだ。
それでもみんな近くにくれば立ち寄ってくれる。
これがお前の作ったコーヒーか、と言って目を細めて飲んでくれるのを見ていると、本当にこの店を開いてよかったと思う。
流動の日々の中に、昔日を固定できる余白。
それが喫茶店という<場>の役割だと思う。
<無為>の意味を体現できる数少ない場所を、社会が失ってしまわないように頑張っていきたい。
それにまだこの店をやめるわけにはいかないのだ。
高校時代、文化祭の浮かれた空気の中、僕が持ち込んだグレコのエレキギターを使ってクロスロードを弾いてくれた男がいた。
山田という男だ。
ベースが本職の山田が弾いたクロスロードは本当にカッコ良かった。
彼とは大学でも同じ軽音楽系のサークルに所属していた。
ずっと友だちなんだと思っていたのに、就職で東京と北海道に離れて、転居を繰り返すうちにお互い連絡がとれなくなってしまった。
先日クラス会があったが、担任の先生も山田の行方はわからない、と教えてくれた。
サークルの友人に会うと、山田の消息を尋ねるが、誰も彼の行方をしらなかった。
この店を開いたことで、ずいぶん多くの音信不通の友人たちとも再会を果たすことができた。
だからいつか、あのドアからふらりと山田が入ってきて、よう、久しぶり、と言う日が来るのを僕は確信している。
その日のためにコーヒーの腕を精一杯磨いておこうと思う。
今朝の「各自核論」には、ITプロデュース集団「リナックスカフェ」を経営する平川克美さんが不定期に連載している「路地裏の資本主義」の第8回が掲載されていた。
「経済成長の病」という著書を持つ平川さんの論説はいつも地に足がついていて、読む者の心に不要な波風を立てない。その平川さんの喫茶店観に深く頷きながら読む。
平川さんは言う。
喫茶店は、どんな経済性もどんな生産性も期待できない場所である。それでもそこはわたしにとっては町の大学だった。
僕の経営するカフェジリオでのお客様の平均的な滞在時間は二時間くらいだと思う。
店舗には、雑誌はあまり置かず、詩集や絵本、酵母や発酵食の本、文化や色彩に関する書籍などを置いているが、これらの本に読み耽る人たちがいる。
ある人は持ち込んだ楽譜に熱心に何ごとか書き込んでいる。
町内会の会合や、PTA行事の下打ち合わせをしている人たちもいる。
かかるのはコーヒー代とケーキ代だけ。
どんなにたくさん本を読んでも、長時間の議論をしてもそれは変わらない。
生産性はともかく、<経済性>とは確かに無縁だ。
そして僕の知っている<大学>という場所によく似ている。
この店を設計していた頃、ダイヤ冷ケースという冷蔵ショーケースの会社の社長さんとお会いした。店の図面を見て、顔をしかめた彼は「こんな席数では収益性が悪すぎます。それにこのカウンター。カウンターは時代遅れですよ。そこに座ったお客さんがお店の生産性を削るのです」と言った。
そういう時代なんだとは思う。
平川さんも、町の喫茶店が消えていく理由に、現代人のライフスタイルの変化を挙げて、こう言っている。
喫茶店での無為の時間とは、本を読んだり、書き物をしたり、議論を戦わせる時間であり、文化が育まれる場所でもあった。<中略>ひとびとは駅前で朝のコーヒーを飲んで仕事に向かい、バリバリと稼ぎを増やすことに熱中し始めた。気がつけば日本は、世界で最も流動性の高い経済国家になっていたわけである。
喫茶店自身の側もこの生産性至上主義に乗っかって、文化の担い手であることを放棄して、建物を壊して駐車場にしたりしたんだろう。
喫茶店がなくなっていくのも仕方のない成り行きだ。
僕が大学に通っていた1985年から88年の間、もちろん携帯電話はなかったけど、友だちを探すのに困ることはなかった。ある人はサークルのたまり場になっていた大学生協のロビーで、ある人は大学近くの喫茶店で、またはバイト先を覗けばだいたい会うことができた。
居場所があるってそういうことだと思う。
今や大学生も忙しい時代になった。
資格を取ったり、英語の検定を受けたり、長期間にわたる就職活動にも従事しなくてはならない。
本を読んだりコーヒーを飲んだりする時間がなくても仕方がないのかもしれない。
以前勤めていた会社で、今も頑張っている仲間たちも本当に忙しそうにしている。
あちこちの拠点を回って何年も単身赴任している友だちもいる。
出張で北海道に来ても今どきは日帰りなんだそうだ。
それでもみんな近くにくれば立ち寄ってくれる。
これがお前の作ったコーヒーか、と言って目を細めて飲んでくれるのを見ていると、本当にこの店を開いてよかったと思う。
流動の日々の中に、昔日を固定できる余白。
それが喫茶店という<場>の役割だと思う。
<無為>の意味を体現できる数少ない場所を、社会が失ってしまわないように頑張っていきたい。
それにまだこの店をやめるわけにはいかないのだ。
高校時代、文化祭の浮かれた空気の中、僕が持ち込んだグレコのエレキギターを使ってクロスロードを弾いてくれた男がいた。
山田という男だ。
ベースが本職の山田が弾いたクロスロードは本当にカッコ良かった。
彼とは大学でも同じ軽音楽系のサークルに所属していた。
ずっと友だちなんだと思っていたのに、就職で東京と北海道に離れて、転居を繰り返すうちにお互い連絡がとれなくなってしまった。
先日クラス会があったが、担任の先生も山田の行方はわからない、と教えてくれた。
サークルの友人に会うと、山田の消息を尋ねるが、誰も彼の行方をしらなかった。
この店を開いたことで、ずいぶん多くの音信不通の友人たちとも再会を果たすことができた。
だからいつか、あのドアからふらりと山田が入ってきて、よう、久しぶり、と言う日が来るのを僕は確信している。
その日のためにコーヒーの腕を精一杯磨いておこうと思う。
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