2016年3月9日水曜日

コーヒーハウスの受難

現在のカフェ文化の大元にあるのは、カフェという言葉がフランス語であることからわかるように、フランスの文化人のたまり場としての「カフェ」であった。

しかし、もし17世紀の英国に「コーヒーハウス」が生まれていなければ、コーヒーを飲ませる場所が街なかの社交場として機能することはなかったかもしれない。
それまで欧州における街の社交場の主役はなんといってもパブやビアホールといったアルコールを提供する場で、人々は昼間っから酔っ払って居酒屋政談などに花を咲かせていたのである。

コーヒー文化はイスラム文化圏からもたらされた。
コーヒーハウスもトルコからの輸入である。
そのせいばかりとは言えないだろうが、近世(early modern period)においては、キリスト教圏よりもイスラム教圏のほうが洗練度の高い文化的生活を送っていたと、島田裕巳氏の「教養としての宗教事件史」にも書かれていた。

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島田 裕巳
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酔を伴わない社交場を得たことで、欧州は理性的な議論の日々を持ち、コーヒーハウスの人気は高まった。

おさまらないのは顧客を奪われたパブやビアホールの経営者である。
彼らの怒りの矛先はなぜか「コーヒー」に向かい、1663年に「一杯のコーヒー、あるいはコーヒーの本質」という非難声明が出される。

「忌まわしき飲み物」「煤のシロップ、古靴の煮汁」「キリスト教徒をトルコ人に変える」などという文言が並び、キリスト教徒ならワインを飲めと結んでいる。
事実、1600年頃にクレメンス8世がコーヒーに洗礼を与えて、コーヒーの存在をキリスト教世界に迎え入れるまで、「キリスト教徒の聖なる飲み物であるワインをイスラム教徒は飲めないため、悪魔からコーヒーを与えられる罰を受けている」として、「悪魔の飲み物」にあたるコーヒーの飲用は教会で禁じられていたのである。
アルコールの販売で身を立てる者たちがコーヒーに抗議するため宗教の威光を借りたという格好だ。

そういう意味では当時、コーヒーとワインは、対立する二大一神教の名代だったとも言える。
現代においてこのふたつの飲料が、ともにポリフェノールの効用でさまざまに健康に寄与していることは、皮肉なことにも思えてくる。

そのような心理的背景から、後にフランスにもコーヒーが持ち込まれた時、その毒性を中和しようとコーヒーに牛乳を加える飲み方が流行した。これがカフェ・オ・レの始まりである。
現代では純粋にコーヒーとミルクのハーモニーを楽しむために飲まれている方が多いと思うが、なんとなく体に優しいのではないかという感覚があるのは事実だろう。
長い時間をかけて作られてきた観念というものはなかなか変えられないものだ。


コーヒーに抗議をしたのはアルコール販売者だけではない。
同じ頃、「コーヒーを難じる女性からの請願」なるものが世に出ている。
副題に「萎えさせ衰弱させる飲み物の飲み過ぎによりて、性生活に生じたる大いなる不如意を世間に問う」とあって、まあこの副題を読んだだけでだいたい内容はわかる。
カフェインと性生活との間に医学的な関連性は見いだせないから、コーヒーハウスに入り浸りで家に寄り付かない旦那さんを非難するための言いがかりというところだろうか。

ところが、あろうことか国王チャールズ二世がこれを真に受けて、コーヒーハウス封鎖令を布告したものだから国内は大騒ぎ。
結局、3000軒にもなっていたコーヒーハウスを封鎖すると税収に大打撃があるとわかって、これを10日間で撤回してしまった。
この歴史的失政のあと、コーヒーハウスへの非難は下火になっていく。


ところで、このコーヒーハウスが生み出した習慣がある。
それが飲食店やホテル、タクシーなどの接客者に渡される「チップ」という習慣で、これは当時コーヒーの値段が1ペニーと非常に安価で、店員の給料が出ないことから「確実に素早いサービスの対価(To Insure Promptness)」と書かれた箱が置かれ、客がそこに投げ銭を入れるというシステムが出来た。
この頭文字をとってTIP=チップと言うのだそうだ。

日本ではこのチップという習慣はないが、世界中どこでもコーヒーを飲ませる場所というのは安価で長時間いられるようになっている。
社交場が男性たちを家に寄りつかせないほどの魅力を放っていた時代にはそれで成立したビジネスも、娯楽に満ちた現代ではなかなかに厳しい。
「黒船」スターバックスの到来で、より洗練された「場」を安価で提供されるようになると、旧来型の喫茶店は「味」の追求という方向転換を迫られた。
これこそが現代のコーヒーハウスの受難。

しかしこの日本型の新しい喫茶店像は、まわりまわってアメリカのサードウェーブを生み出すモデルとなったのだから、なにごとも受難こそが成長の源泉ということなのだろう。


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