2013年11月21日木曜日

頼るべき「プロ」を失ったままアンダーグラウンドに引き込まれた僕らには助かる見込みは、今度こそない

去年の冬あたりからJR北海道の運行が不安定になっていたことは感じていた。
しかし、それも仕方ないだろうと思えるような異常な積雪だったから、これは一時的なものなんだろうと思っていた。

春になっても各所で線路の保全状態が充分でないためのトラブルが続いたが、あの積雪の後遺症、という見方もできたし、北海道のこの広い路線を民営化した会社で利益を上げながら維持していくこと自体に無理があったんだろうとも思えたから同情的にニュースを見ていた。
事実、近年のJR北海道は札幌駅前の再開発事業で大きな収益を上げてきたし、投資をして安全という目に見えないリターンを買うメインテナンスよりも、株主の喜ぶ収益事業に注力せざるを得ないのもわからなくもない。
そのくらい経営に対する圧力は強いものだ。

それにしても現場のプロ意識の低下は許容外のレベルに来ているようだ。


1995年3月20日に起きたオウム真理教の地下鉄サリン事件の時、多くの営団地下鉄職員の方が被害に遭われた。
村上春樹さんの書かれた「アンダーグラウンド」を読んで、鉄道に関わる人たちが仕事に対して抱いている純粋な使命感のようなものに強く感銘を受けた覚えがある。
そして、社会に出てまだ六年目だった自分の、仕事に対する気持ちの浮薄さを思い身が引き締まる思いだった。

その頃の僕は仕事での失敗が人より多い営業マンだった。
もともと不注意な性格だったし、地道な作業よりも企画を考えたり、人と打ち合わせたりする時間の方が好きだった。
不注意な性格は変わらなかったけど、自分の仕事だって「世の中」の一部だと思ったら細部をおろそかに出来ないと感じて、関連する法制を調べて業界団体の話を聞きに行ったり、商談だけでなく取材に立ち会って自分がやっている仕事の全体像を掴もうとした。
お客様との会話も弾むようになり、仕事が楽しくなったし、成果も上がった。

でもそうなると、今度は世の中のプロ意識が急に気になりだした。

ある日、原宿で新しくオープンしたイタリア料理店に入って昼食をとろうとしたら、ランチメニューにはスパゲティしかなく、気分でなかった僕は他のメニューはないか、と尋ねた。ないのなら、ないと言ってくれればよかったと思うが、店主らしき人が「うーん、あなたにはウチの店はちょっと無理だね」と言って食事を出してくれなかった。もちろん、席を立って別の店に行ったが、今でも、どうしてイタリア料理店でスパゲティ以外のものが食べたいという希望が店の格にそぐわないことになるのかはわからないままだ。

その頃からタクシーに乗ると、「道はどうしますか」と尋ねられるようになった。当然おまかせします、と答えていたが、ある日ちょっと気になってどうして道順の指定を求めたのか聞いてみた。最近は渋滞にはまったりするとクレームをつけてくるお客さんが多いんだそうで、自分が選んだ道ならば文句が言えないからとのことだった。また、違うルートの方が近いはずで、不当に料金を高く請求したとクレームを受けることもあるという。

そして政治家は説明責任を問われすぎて、民衆受けしない政策を選択できなくなった。
みんなにいい顔をしているうちに、社会のあらゆるセーフティネットはほころび始め、苦し紛れに政権交代のゲームや、ナショナリズムをおもちゃにして世の中のガス抜きをしている。

プロはお客様よりも専門知識があって、その専門性そのものがサーヴィスのクオリティを担保して、だから対価を受け取れるのだと思う。
消費者の言うとおりに商品を渡すだけならプロである必要はない。

で、世の中はそっちにいった。
ふと気づくとお店に立っている人はみんなアルバイトになってしまい、商品のことをよく知っている人はいない。
インターネット・サーヴィスを売りに来る若い営業マンの言うことはマニュアル通りだが肝心なところがいい加減で、後で思わぬ請求が来る。
おいしい水とやらを売りに来る人の言葉には科学的素養がなく、布教の言葉と変わりがない。

だからプロ意識が低下しているのはJR北海道だけの問題ではなく、もっと大きな社会的要因が関係していると考えるべきだ。

世の中の多くの会社はプロを育成するコストのかかるミッションを放棄し、容易に交換可能な、ユニット化されて、誰からもクレームがつかないマニュアルを携えた労働力を使う。グローバリズムというコストを武器に戦う戦争に勝つために。

しかし頼るべき「プロ」を失ったままアンダーグラウンドに引き込まれた僕らには助かる見込みは、今度こそない。

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