2013年11月8日金曜日

入試で人間力なんて問うたら、落第者は「人間失格」になっちゃうけど、それでいいんでしたっけ

会社員時代、僕は専門学校の募集広告を営業する営業マンだった。
隣の部署では同じように大学の募集広告を営業していた。

その部署のエースは、その昔、早稲田大学と慶応大学を一緒に担当していたのだそうだ。
そう聞いて、早稲田や慶応に募集広告なんぞ必要なのですか、と何も知らなかった若いころ深い考えもなく訊いたことがある。
そう問いかけた僕を見て周りにいた先輩たちが、何故かにやにやしている。
この話は、そのエースのある武勇伝に関係の深いテーマだったのだ。

ご想像通り、早稲田や慶応に知名度を上げるための広告の必要などない。
しかし大学が社会的な存在である以上、最低限、学部学科の情報や、入試の方法などの資料請求の機会を他の大学と横並びで提供する必要はあるだろう。
あのように大きな大学になると、基本的な情報提供だけでも結構なコストになる。

それである時、慶応大学と早稲田大学は強者連合を組んで、合同の説明会を組み、コストを折半することを思いついたらしい。
その企画に協力を求められた我がエースは、その商売の種をあろうことか即座に断り、こう言った。

「早稲田大学さんは在野精神や反骨の精神で模範国民の造就をめざすんですよね。慶応大学さんは入学された方に、気品の泉源、智徳の規範を以って全社会の先導者たらんことを求めておられるはずですね?
御二方が集めるべき学生は正反対の気質を持った人たちです。肩を組んで広告をすべきではありません」と。

その後、その企画がどうなったのかは知らないが、なるほどこれが「学校の広告」というものの考え方か、と強く感じ入った。

このような考え方は入試にも必要なものだ。
かの東京大学の入試には難問や奇問は出題されない。
そこでは、基本的なアクションをミスなくこなす才覚が問われているのだ。
官僚を目指す彼らにふさわしい入試スタイルではないか。

僕がお世話になった専門学校という世界では、そのような募集人材像は大学以上に先鋭化していかざるを得ない。
専門学校入学のための模試がない以上、そこに偏差値は存在しないからだ。

また、調理の専門学校に進学する人と声優の専門学校に進学する人に求められる資質は大きく異なっている。
国語・算数・理科・社会ではほぼ判断がつかないのだ。

動物病院の看護師さんを養成する専門学校では入試にデッサンを取り入れていた。絵の上手い下手ではなく、動物を観察する目があるかどうかを見ているのだという。
なるほど。

同じ系統の専門学校であっても、その職業に必要な資質に対する考え方が異なっていれば、当然教育の方法も異なる。
大手のある簿記・経理系の専門学校では、単線的で硬直的な学歴社会へのレールにうまく乗り切れなかった入学者たちに簿記の資格試験を通じて成功体験を積ませ、自信をベースにした社会人基礎体力を養成するが、別の学校では、少人数のゼミで多くの課題をこなしていくことで実社会に近いある種の「理不尽さ」を数多く体験させることで社会人基礎体力を養成している。
それぞれの学校で成長できる人は自ずと異なっている。
これはもはや入試などでは選別できず、高校生の時にかなり本格的な体験入学を行って判断してもらうしかない。
事実彼らの募集スタイルはそうなっていた。


大学も事実上ユニバーサル・アクセスとなり、もはや多くの学校にはすでに偏差値もついていない。
先行して、偏差値ではなく教育のスタイルからの募集選考を極めてきた専門学校のスキルを学ぶべき時期に来ているのだ。

こんなご時世にすべての学校を一括りにして「大学生の就職率が下がっている」などという言説はもはや意味を持たないし、そのような現実とかけ離れた危機意識から大学入試の改革を考えるのもナンセンスだ。

案の定、ナンセンスな前提から始まった、社会の上流部分しか識らない「識者」たちの会議は「人間力」を問う、などというナンセンスな結論に行き着いた。
入試に失敗した人は「人間失格」というわけだ。

どこの大学に行ったかで人生は決まらない。
ましてや人間失格になったりはしない、絶対に。
だから入試なんてのは、たかが「学力」試験、に留めておいたほうがいいと思う。
オールマイティな人間力の序列なんてつけるべきじゃないし、初対面の面接官にそんなことできるはずがないじゃない。
一回こっきりのペーパーテストだからこそ、失敗の言い訳が、そしてその先を生きていく心が軽くなるんだよ。


縁あって、明治大学さんにお世話になったことがあって、パンフレットを作らせてもらったので、その時学生さんにけっこう話を聞いた。
「どうして明治大学に来たの?」という質問にほとんどの学生さんは「早稲田に落ちたから」と答えたけど、みんな楽しそうだったよ。
ちょうどリバティ・タワーができたばかりの時で、学習環境は極めて充実していたし、その言葉は本心からのものに思えた。

至る道筋は偶然に支配されているけど、いずれ人は現在という時を生きていくほかない。
出会いが偶然であったとしても学ぶことは楽しいことであって欲しい。
失格者の烙印を押されて学ぶ学問が楽しいはずがないし、本当の主体性や創造性は、「失敗してもいいんだよ」って言葉から生まれてくるような気がする。

常に揚げ足取ってやろうと失言に目を光らせて待ち構えるマスコミの中で、窮屈な政治を強いられている人たちが考えるこの国の未来が、主体性とか創造性に満ちているはずもないんだけどね。

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