物事の見た目と内実はずいぶん異なっていることが多い。
皆さんも喫茶店などで、店員を「すいませーん」と呼んでも来ないことが多くて苛立ったことがあるのではないだろうか。僕もよく苛立っていた。もう少し、客の様子をきちんと見ろよ、と。
だから自分で喫茶店を始めた時は、お待たせしないぞ、という決意を漲らせてお客様の様子に注意していた。
様子に注意するということは、お話も聞こえてくるということだ。
お客様の喫茶店での会話というのは多岐に渡っているようで、実はそうでもない。
個人が持つ行動パターンというのはある程度決まっているもので、喫茶店で友達と会う人というのは、他の目的のときにも外食店を利用することが多い人なのだ。だから自然、話題は外食店での珍事に集中することになる。
この種の話題は、たいていお客さんが店員さんに話しかけるところから始まる。だからそれを披露するとき、冒頭には、身振り手振り付きで臨場感たっぷりに「すいませーん」という演技が入る。
店を始めたばかりのういういしい店主であった僕は、その演技にいちいち反応して、「はい!」と大声で返答し、テーブルに駆け寄ったものだ。
そのたびに、話の邪魔するんじゃないわよ、という白い目に晒されて、すごすごと持ち場に戻った。
一年もすると、お客様の呼び声に無反応な店主の仲間入りをしていた。
お客様のために、という気持ちはいささかも錆びついていないつもりだが、何かの不備が重なれば、ああ、あそこはお客さんを大事にしない店だからね、と言われることになるだろう。
実際に体験していない事象の「真意」を知ることは実に難しい。
だから世の中は、報道や誰かの細切れの言葉に反応的に紡がれた、的外れな批評に満ちている。
失言と言われた政治家の多くの発言の全文を読んで印象がひっくり返ったことなど一度や二度ではない。
ことに政治の世界などは、未来に何が起こるかわからぬ神ならぬ身で、大きな責任を負って決断をする人たちの戦場なのだ。
我々の世界とは大きな乖離があって当然ではないか。
グローバルにまたがった複雑な利権をくぐり抜け、様々な副作用を鑑みて立案された政策を、ほんの一言か二言でしか判断しない人たちのために書かれた商用文で、僕らは一刀両断したつもりの批評を書いたりする。
それでもその批評の言葉の文体が優れていたり、時代の空気にマッチしていたりすると容易に拡散され、ある種の世論が形成されてしまう。
こんな世界で、本当の意味での挫折を知らず、未だ全能感に満ちた心で社会を見る思春期の青年が、民主主義の欺瞞を暴いたつもりの投書を新聞にしたとしても誰にも責められはしまい。
重要なことは、それがどんな分野であっても、体験しなければわからない内実の真意を得ることだ。
もちろんすべてのことを知ることはできない。それでいいのだ。
自分の仕事をきちんとやる、ということだ。
自分の仕事とは、誰かに与えられたものではなく、それをやっている間は間違いなく自分の時間を使っていると実感できるもののことだ。
そこから生まれるのがプロの言葉だ。
「言葉が軽くなった」とは近年、政治家の言動を評して使われることが多いが、誰の言葉も軽くなっているのではないか。
タクシーの運転手はお客さんに道を訊き、医者は患者が欲しがる薬を処方する。
食材の営業パーソンは味についての言葉を持たず、インターネットサーヴィスを売り込みに来た人は価格のことしか言わない。
また職業人としての我々のプロフェッショナリティーが失われていくのと同時に、生活人としての我々の道理も薄れていく。
PTAの集まりに出て、子供の名前にどんな想いを込めたか、という話題になったとき、驚くほどたくさんの人が「占い師さんに決めてもらいました」と言うのを聞いて、生活の外注化の時代が始まったんだな、と感じた。
生きていくことの大切な部分をお金を払って外注することと、その外注を受けるプロフェッショナルの専門性の喪失が同時に起こっている。
考えてみれば当たり前で、どちらも同じ人間がふたつのペルソナを被ってやっていることなのだ。
何年も食材を偽装されていながら、表示された「名前」の有難さに金を払い続けた消費者と、厳しい景況の中で「高くてうまいのは当たり前」などと言って歴史と情熱の賜物であるホンモノの料理を袖にするドライな消費者を引き留めるために最後のプライドを売り渡した料理人は、同じ人間のふたつの顔なのであって、どちらかが被害者でも加害者でもない。
必要なのは批判の言葉ではなくて、学びあうための言葉ではなかったか。
経験に裏打ちされたリアルな言葉を、誰かの学びのために提供するためにこそ、この進化したInformation Technologyを使うときなんじゃないないだろうか。
わからない者同士で、わからないことを議論してわかったつもりになるために使うんじゃなくてね。
学びあう、とは言ったが、特に学校のことは考えていない。
社会が行き詰ると、すぐに学校教育の改革論が出てくるのが常だが、たいてい対症療法で役にたたない。だいたい一番大事な生きることに関する学びまで学校に丸投げしようとしているところに現代の諸問題の根っこのひとつがあるんじゃないのかい。
結局のところ一生懸命働いて生きている僕たちの背中を見て、自分の子供が何かを感じてくれるならそれ以上の教育はないと思う。 一番見た目と内実の間に嘘の入り込む余地がないのが家族の絆だと思うから。
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