マンデリンという豆は、知名度も高く、ストレートの豆としては最もよく売れる豆だ。
インドネシアの種族の名を冠したこの珈琲は、もちろんインドネシア、スマトラ島で栽培、加工されている。
インドネシアにはオランダの植民地時代にアラビカ種が持ち込まれた。
当時イギリスの東インド会社がエチオピア・イエメン産の珈琲豆でヨーロッパの市場をほぼ独占していた。イエメンのモカ港から出荷されたため「モカ」と呼ばれたこの珈琲の通り名は、そのまま珈琲を指し示す代名詞となったほどだ。
英国以外の欧州列強はこの成功を妬ましく思い、自分たちの植民地で珈琲豆の栽培を試みるが、なかなか成功しない。
はじめて大きな成功を収めたのがオランダがインドネシアに移植したアラビカ種だった。
オランダ東インド会社は低価格戦略でモカを一気に欧州市場から駆逐した。
経営を維持できなくなった英国東インド会社は、主力を茶の輸入に切り替え、紅茶王国イギリスへの道を歩み始めるというわけである。
しかし好事魔多し。
成功を収めたはずのインドネシアのアラビカ種はさび病の大流行でほぼ絶滅してしまう。
主要な農園だったジャワ島は紅茶の栽培に全面的に移行し、現在ジャワと聞けばお茶を連想する人が多いだろうが、かつてここが珈琲の大生産地であったことはコンピュータ言語のJAVAのシンボルマークがカップから湯気を立てている珈琲であることに名残を残している。
この時、わずかに残ったアラビカの苗を大事に守り育て続けたのが「マンデリン族」という氏族であった。
他の多くの農園は、それまでノウハウを活かしてさび病に強いが安価なロブスタ種の栽培に切り替えた。
だから、インドネシアでは今でも圧倒的多数のロブスタ農園に囲まれて、ごく少数のスマトラ・アラビカ(はい、これが正しい呼び名です)が生産されているのである。
この希少性からマンデリンは高値で取引されていて、高値だから美味しいだろうということで人気があるという側面は否めない。
しかし、焙煎をしてみるとわかるが、この豆は実に素性のいい豆だと思う。
実によく膨らむのだ。
珈琲の味は、焙煎時に豆内にできるたくさんの微細な孔に生じる800種類に及ぶ化学物質から成る。よく膨らむ、ということはこの微細な孔がたくさん出来ているということを意味していて、抽出の際、味の出やすい珈琲豆であると言える。
実際の風味がよいかどうかは、それとは別の話なのだが、少なくとも良い珈琲豆になる遺伝的特質のひとつを備えている豆であることは間違いない。
しかし近年このスマトラ・アラビカの優秀性が脅かされている。
それは、周囲で栽培されているロブスタ種との自然交配である。
工業が発展するインドネシアで、農家の後継者問題が深刻化するのは日本も通ってきた道だ。優秀な人材は工場にとられ、農園の管理は少しづつ緩んでいく。
開業した7年前深い緑色だったマンデリンが、だんだん白っぽくなってきたなあと感じ始めたのは3年ほど前のことだ。
入手できる限りのサンプルを集め、昨年やっと一番当時の色合いと味に近い「トバコ」というブランドに出会った。
それも数年後はどうなっているかわからない。
ブラジルは世界で最も多くのコーヒー豆を生産する国だが、手はかかるが他にない甘みが魅力的な樹上完熟農法を行う農家さんの豆を愛用してきたが、ここ3年でトルマリン農園、ヴァージニア農園と、見つけるたびに次々に農園を閉じた。
今は日系三世のトミオ・フクダさんの手掛ける豆を使っている。ぜひ長くやってほしいと思っている。
良質な農産物を作る農家さんが、誇りを持って仕事を続けられない世界の現状を深く憂う。
リーマン・ショックの後、行き先を失った投資マネーが珈琲豆の先物市場に集中したことがある。珈琲豆の価格は高騰したが、別に生産者が潤ったわけじゃない。
スターバックスが、エチオピアのイルガチェフェ村の少し深めに焼くと非常に複雑な香味を生じる豆に注目して買い占めたことがある。
産地に関係なく農協がまとめて購入し利益を分配する方式をやめて、産地としてのブランドを確立しようという動きに賛同して一般のエチオピア豆の2倍近い価格の豆を小さなロースターが買い支えてきた豆だ。その年は、我々のようなロースターにはイルガチェフェは入手できなかった。
買い占めは一年で終わり、翌年はケニアの豆を大量購入したようだ。
生産量を増やすべく投資をしたのに一気に仕事を失ったエチオピアの農家の多くが麻薬の栽培に転作したと聞いた。
東京では、会員制で、希少性の高い珈琲豆をかっこいいボトルに詰めて非常に高価な価格で販売している業者が成功していると聞いた。ここにも生産の現場に直結しないマネーの狂騒を感じる。ビジネスモデル?あんまり無責任な言葉を使わないでほしい。
生産者の現状が劣悪でなかったらこんなことは言わない。
修行時代、美味しい豆を輸入するために毎年生産の現場を回っておられる方々を選んで師事した。先生たちはみなさん地域に根を下ろして毎日、どうやって昨日と同じ味のコーヒーを作るかということだけに腐心しておられた。
そのためにアフリカやブラジルに飛び、生産にアドヴァイスもされていた。
安全で美味しいものが、豊かな生活を支えている。
カネだけあっても豊かにはなれない。
美味しいものがなければ、世界のどこかから漁って来よう、というのがグローバリズムだというのなら、それは人を幸せにしない思想だ。
この美味しいマンデリンが、明日も美味しいままでいてくれる世界を作るために、僕に何ができるだろう。
きっとそれは、この路地裏のカフェで、美味しいマンデリンを美味しいと感じてくれる消費者の方に届け続けることなんだと思う。
だから僕にとって珈琲を淹れるということは、ある種の「祈り」なのだ。
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