承前
中野弘志氏のコーヒーセミナーから学んだことは実に多いが、確かにいちいち言語化できないことが多かった。
あえて文学的なアプローチを試みると、「豆が、珈琲のコトバで話しかけてくる」という感じか。
実務的なコトバにするならば、要するに煎りドメに至る豆の変化は、終局において「皺が伸びる」=内部の多孔質化が充分進んだ、という局面と「ふわっと煙が出る」=内部の油脂分が表面に出てくる直前まで来ている、という局面の兼ね合いで出来ていて、厄介なことに産地によって、その頃合いが異なっているということだ。
前回の最後に、少し煎りの足りないものと、それをそのまま再度焙煎機に放り込んで焼成を進めたものについてお話したが、ほんの温度にして2℃程度、時間にして5秒くらいの差なのだが、飲み比べてみると仕上がりの差は明らか。
もちろん酸味の残りなども気になるのだが、そんなこと以上に「味の力強さ」のようなものが違うのだ。
最近よく、店頭で生豆の種類を選んで注文すると、その場で焙煎して渡してくれるというお店を見かけるが、この場合、豆は100g単位で焼けることや、お客様をお待たせしないスピードが必要になってくる。
そのために開発された焙煎機がジェット・ロースターで、少量の豆を高熱で処理して90秒程度で焼きあげるのだという。
私も、珈琲豆は鮮度こそが最も重要であるという立場であるので、これでウマい珈琲豆が焼けるのなら、こんなにいいことはない。
マーケティング的な納得感も高く、広告効果も高いだろう。
しかし、20分かけて焼いた最終工程の5秒でこんなに味が変わってしまうのに、90秒で焼けてしまう機械の場合は、どこでどう煎り止めを判断しているのだろうか。見ている限りでは、タイマーで自動化されているようだった。
実際に何店舗かで豆を買ってみたが、どれも表面は焼けていても芯残りで、強い苦味の中に、これまた強い酸味が残るという味だった。
そしてまた、このように味の問題を「酸っぱい」と「苦い」というコトバに帰着してしまえるところにこの議論の次元の低さがあるように思う。
中野弘志氏の教えの画期的なところは、珈琲は「酸っぱくても、苦くてもダメ」で、味の議論はその先にある、というところにあり、まさにそこに一日拾万円の価値があるのだと私は思う。
であればこそ、その道ははるか遠くまで伸びている。
私は毎日焙煎をしながら、あの一日に覚えた、珈琲が焼けていく時の様々な表情や音の変化を思い出して、珈琲修行を始めるきっかけとなった河野社長の珈琲を自分でも再現できる日を夢見ているのだ。
The END
先週私も中野先生の一日講習行ってきました。
返信削除僕も中野先生の方法に目からウロコでした。
また何かの機会にお話出来ればと思います。