復興は首相の言葉とは裏腹に遅々として進んでいないように見える。
まだ行方不明の方もたくさんいらっしゃる。
悲劇はいまだ進行中である。
そして被災者の誰の心の整理もつかないまま哀悼の言葉だけが先走っている。
でも仕方がないのだ。
生者の我々には、死者の言葉は聞こえない。
彼らがどのような思いで死の瞬間を迎えたのかは、我々にはわからない。
どのように彼らの魂を慰めればいいのかは、誰にもわからないのだ。
新聞には、津波に流されてしまった3歳の息子さんの死亡届をどうしても出すことができず、この春入学するはずだった小学校からの入学通知書が届いた父親の言葉が書かれていた。父親は、もう子どもを探し続ける気力も失い、それでもその死だけを頑なに受け入れずにいた。
この父親の無力感にどのような慰めの言葉も虚しい。
生者の声は聞こえても、やはり我々にそれを慰める言葉は無い。
この圧倒的な無力感の前に佇んで、どうしていいのかわからずに戸惑う。
その率直さこそが、宗教行為としての「慰霊」の厳粛さを担保している、と昔読んだ「現代霊性論」に書いてあった。
内田 樹 釈 徹宗
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生前の故人をよく知る人だけが、その縁に甘えて言葉を発することを許される。
「僕たちは大丈夫だから、安心して眠ってね」と。
だから僕たちは、死者の言葉を代弁してはならない。
このような代弁行為は、国と国との諍いのような、個々の顔が見えないとき往々にして発動する。
死者の「せい」にして自分たちの要求を言い立てるようなことは厳に慎まなければならない、と僕は思う。
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