それがどんな大学であっても、それぞれに入学した一人ひとりの大学生にとって意味のある選択だったのではないのだろうか。
少なくとも、辞めたほうがいいと言われる筋合いのものではないと思う。
僕自身は、1985年に長年住んだ釧路を離れて、北海道大学に進学し、札幌に出てきた。
はじめて親元を離れての一人暮らし。
日本中から集まってきたオモロイ同級生たちとの日々。
半分大人だけど半分子どもの都合の良い身分で、バンドをやったり、古本を買いあさって読んだり、学習塾や貸しレコード屋や引越し屋なんかでバイトをした。
それは自由な生活なんだと思っていた。
大学にもクラス担任がいて、大学生になったんだからこの本を読め、とエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を勧められて図書館で読んでみた。
はっきりとはわからなかったけど、どうも今自分が楽しんでるこれが本当の自由っていうのとは違うんじゃないかとは感じた。
哲学科に進んではみたが、今学んでるこれが一体何の役に立つのか、その時にはわからなかった。
でも社会に出て、いろんな困難に出会うたびに、それを言語化して解決するためのヒントは大学時代に学んだことの中にあった。
昔より、はるかに多くの人が大学に行けるようになって、彼らはそれぞれに人と出会い、本に出会い、音楽に出会い、映画に出会い、今より豊かな日本を作り出してくれる。
僕はそう信じたい。
その意味では、堀江貴文さんの発言を伝えたJ-CASTのニュース「東大と慶應のブランド価値は天と地の差」 ホリエモンツイートがまたまた物議醸すにも気になる表現がある。
冒頭の、
日本には今、782校(2013年5月1日現在)もの大学がある。多くの人が高等教育を受ける機会に恵まれているが、「多すぎて学生の質の低下につながっている」という指摘も根強い。という部分だ。
確かに、高校レベルの補習(リメディアルといいます)が必要な大学も多いと聞く。
ならば、そもそも高校レベルの知識がないほど勉強が嫌いな人がなぜ大学に行っているのか、ということを考えるべきだ。
答えは簡単だ。「行けるから」だよ。
高度経済成長期やバブル期を駆け抜けた両親、または祖父母の手元に残っている豊かな財産が直接的、間接的にそれを可能にしている。
高卒で就職できる職場は極端に少なくなっている。これからもっと減るだろう。職業というものはできるところからシステム化され、人間に残された領域は専門化し、高度化していくからだ。
行く場のない彼らに大学は絶好のモラトリアムを与えてくれる。
でもそれのどこが悪い?
そのおかげで、彼らの懐に貯めこまれていた蓄財は経済サイクルの中に還流され、教員や職員といった雇用まで確保される。
教室が無法地帯になるのは、この恩恵の副作用だが、そもそも教室で傍若無人な振る舞いをすることの要因は、それが旧来の大学に行けなかった層であるということと多少の因果関係を持つだろうが、それ以上にその個人の人格を形成した「家庭」の劣化によるものだと考えなければ理屈に合わない。
そのような学生たちをも振り向かせる魅力ある授業を行えれば、もちろん問題は解決する。
だが、想像してみて欲しいが、それはいったいどのような授業なのか。
予備校のスター講師のように、明快な物言いで試験対策のポイントを押さえていくような授業が容易に想像できるが、研究者から直接手ほどきをいただく大学のような場所で、それは要求としてふさわしいものと言えるだろうか。どんな場合にも求道者に対しては一定の敬意を払うのが筋というものではないか、と思う。
本質的な意味で、大学は学問をする場所である。
でありながら同時に、その場所にあってもそれを目指さないこともできる場所なのである。
そのような自由の精神が許された場所でこそ、人間の知は磨かれるに相応しい。
人生の真ん中で、何をしてもいい時間が与えられるということは、近代、人類が獲得した自由の価値を象徴する素晴らしい特権だ。
これが、より広い人たちに与えられるようになったことをまずは喜ばしく思うのが先なのだ。
そして、この大学という場所が決して就職のための予備校でないことをこそ、僕らは目指さなければならない。
願わくばそこが多くの人にとって学問っておもしれーな、と思える場所だといいと思うが、そのためには研究者たちがまず、学問を面白がっていなくてはならない。
研究者たちは、学問を面白がれているだろうか。
今はそれが気にかかる。
常見さんのツイートから来ました。物凄く共感しました。よろしければで構いませんので、一読していただけたら幸いです。「現役大学生視点の大学生論」 http://ameblo.jp/abcd-dark/entry-11800215437.html
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