2014年3月17日月曜日

学校が社会のリクツから隔絶されていなくてはならない理由

娘がまだ小さかった頃、一緒に「絶対可憐チルドレン」というTVアニメを観ていた。

使い方を間違えれば世界を滅ぼしてしまうほどの超能力を持った美少女三人の管理者として赴任してきた皆本氏(=源氏、この物語は源氏物語を下敷きに描かれている)が、最初の仕事として取り組んだのは、超能力を持つがゆえに一般社会から隔絶されて育てられた三人を普通の学校に編入することだった。

その際、皆本氏が、「どうせうまくいかない」と尻込みする彼女たちに言った、

「君たちは、何にでもなれるし、どこへでも行ける」

という台詞を聞いた時、僕は隣にいる娘に、同じ台詞を心から言えるだろうかと考えていた。それはきっと、僕自身が「今、何者かになれたのか?」と問われている、と感じたからだろう。

そして僕は同じ問いを、社会人になったばかりの頃に問われたことがあるのだ。


新人研修の一環でお客様への営業に同行させてもらった時、電車を待つ駅のホームで、一年先輩の営業パーソンが「で、お前何になりたいんや?」と突然話しかけてきた。
「社会人になった」と思っていた僕は、不思議なことを聞く人だなと思うばかりで、うまくその質問に答(応)えることが出来なかった。

曖昧に笑う僕に構わず、その人は「オレはなあ、オーストラリアで土産物屋がやりたいんや」と言った。
「雨季の間は休めそうやから」という理由はともかく、就職がゴールじゃないっていう考え方には刺激を受けた。

人は、どうしたら<何者>かになれるのだろう。
やはりそれは、<目的>を心に持つことから始めるしかないのではないか。

僕はその後、喫茶店の開業に向けて40歳の時に退職して珈琲修行を始めた。
目的を得た者の<学び>は、まさに学ぶ者の<手段>である。であるからこそ、「何の役に立つかわからない」ものを学んだりはしない。

しかし、初等・中等教育が対象とする子どもたちの多くは、まだ社会人のようには学びの目的を持つことは出来ない。
いや、出来ないのではなく、それが「何の役に立つのか」などと考えながら学ぶべきでないのだ。
なぜなら意欲を育むのが学力であって、その逆ではないからだ。
何も知らないのに、何をしたいかわかるはずがない。
<目的>という打算無しに学ぶ対象に没頭する瞬間がなければ意欲を生むための学力を得ることは出来ない。
そのための場所を<学校>という。

だから<学校>というものは社会のリクツから隔絶されていなくてはならない。
そうでなければ、どうして僕らは僕らの愛おしい子どもたちに、
「君たちは何にでもなれるし、どこへでも行ける」
などと言えるだろう。

何者かになるためのスタート地点は、何にでもなれる場所でなければならない、と僕は思う。
そのための場所を娘のために残しておいてあげたい。
そしてその場所が、今危機に瀕しているのではないか、と僕は心配している。

大人たちが、自分たちが学んできたものを「なんの役に立つのかわからないもの」と言い、それは不要であるとするようなこの時代が、大切なモノを壊してしまうのではないか。
キャリア教育の名のもとに、社会のリクツが<学校>に忍び込んできた時、<意欲>は育んだものでなく、押し付けられたものにならないか。

そもそもが不公平に出来ている現実(=社会のリクツ)に抗えるものは、例えば自分の子どもが犯罪を犯してしまったとしても、それでも君はかけがえのない僕の子どもだと言える強い愛情しかないと思う。
同じように学校という場所は、子どもたちを「社会の子ども」として愛し抜くことで「何にでもなれる」場所としての位置を担保しなくてはならないのだ、と思う。
そしてだからこそ「社会の子ども」を守る学校という場所は、社会の不公平の一部である<家庭>そのものからも隔絶されている必要があるのだ。

家庭というものは社会の不公平の起源である。
サンデル先生もご著書にて、「まったく日本の教育ってのはさあ」という文脈で必ず引き合いに出されるハーバード大学に入学するアメリカ人学生の多くが、恵まれた環境の出身者であることを紹介して「実力の正体」について言及しているが、<実力主義>を根底に持つ<個性教育>とは「恵まれた環境すらも<実力>の一部」であるという思想なのである。

それに、どのような環境でもそれを突き破って出てくる制御不能な存在を「天才」と呼ぶのではないか。
僕は、そのような<実力主義>や<天才>に目配りをして、ほんの一握りの秀でた才能を育てる教育よりも、皆に「君たちは何にでもなれるし、どこへでも行けるんだよ」と言ってやれる教育環境が尊いと思う。
そしてそれは、「社会の子ども」を愛し抜く主体としての教員が、ただ子どもたちのために時間を使える環境なんだと思う。
いずれにせよ、それは学校の<内部>にある。


教育改革に意欲的な現政権の改革案を見ていれば、そこにイデオロギーの影を見て取ることは容易い。
政府の考える「明日の日本に必要な人材像」などを<外部>から子どもたちに押し付けてはならないと思う。
どんな明日が来ても、僕は娘にこう言ってあげられる親であり続けたい。
「君は何にでもなれるし、どこへでも行けるんだよ」と。

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